声劇台本 based on 落語

柳田格之進やなぎだかくのしん


 原 作:古典落語『柳田格之進』
 台本化:くらしあんしん


  上演時間:約100分


【書き起こし人 註】

古典落語をベースにしていますが、あくまでも"声劇台本"として作成しています。
なるべく声劇として演りやすいように、元の落語に様々なアレンジを加えている場合があります。

アドリブ・口調変更・性別転換 等々OKです。



ご利用に際してのお願い等

・上演を公開される際は、観覧無料の媒体のみで行うようお願いします。
 観覧自体が無料であればかまいません。いわゆる「投げ銭システム」に代表されるような、リスナーから
 配信者へ 金銭または換金可能なアイテムやポイントを贈与できるシステムの有無は問いません。
 ただし、ことさらリスナーに金銭やアイテム等の贈与を求めるような行為は おやめください。


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 録画の公開期間も問いません。

・当ページの台本を利用しての有料上演はご遠慮ください。

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・台本利用に際して、当方への報告等は必要ありません。




<登場人物>

柳田格之進やなぎだかくのしん (セリフ数:165)
 30代半ば~40歳くらい?  
 現代でいう50代くらいの貫禄があってもいいかもしれない。
 真面目で実直な性格の武士。
 あまりに清廉すぎて仲間から煙たがられ、浪人となってしまう。
 一人称は、「わし」 「拙者」 「それがし」 「身ども(みども)」 など。



・きぬ
(セリフ数:55)
 16~18歳くらい?  
 格之進のひとり娘。
 気丈で芯の強い女性。
 一人称は 「わたくし」。



萬屋善右衛門よろずやぜんえもん
(セリフ数:123)
 50歳くらい?  
 浅草にある大きな商家「萬屋」の主。
 碁が好きな、人のいい おじさん。
 格之進の人柄に惚れ込む。
 一人称は 「わたくし」 「わたし」 「手前(てまえ)」。



長兵衛ちょうべえ
(セリフ数:147)
 30歳前後?  
 萬屋の番頭。
 善右衛門が浪人の格之進と親しく付き合うのを快く思っていない。
 一人称は、独白では「俺」、それ以外では 「わたくし」 「わたし」 「手前(てまえ)」など。
 ※「語り」と兼ね役の場合、「長兵衛」と「語り」のセリフが連続する場面がいくつかあります。



定吉さだきち
(セリフ数:34)
 10歳前後?  
 萬屋に奉公している小僧さん。
 一人称は「オイラ」。




碁会所ごかいしょの店主
(セリフ数:6)

・侍1 (セリフ数:3)

・侍2 (セリフ数:2)



・語り (セリフ数:35)
 出番自体は少ないですが、テキスト量はそれなりにあります。  
 ※「長兵衛」と兼ね役の場合、「語り」と「長兵衛」のセリフが連続する場面がいくつかあります。




<配役>


●4人の場合

・格之進:♂ ※マーカーあり台本 → こちら
・きぬ/定吉:♀ ※マーカーあり台本 → こちら
・善右衛門/侍1:♂ ※マーカーあり台本 → こちら
・長兵衛/語り/侍2/碁会所の店主:♂ ※マーカーあり台本 → こちら






●5人の場合

・格之進:♂ ※マーカーあり台本 → 「4人の場合」と同じ
・きぬ/定吉:♀ ※マーカーあり台本 → 「4人の場合」と同じ
・善右衛門/侍1:♂ ※マーカーあり台本 → 「4人の場合」と同じ
・長兵衛/侍2:♂ ※マーカーあり台本 → こちら
・語り/碁会所の店主:不問 ※マーカーあり台本 → こちら



 上記配役はあくまで推奨ですので、自由に変えてください。



【ちょっと難しい言葉】※クリックすると開いたり閉じたりします(ブラウザによっては機能しません)
  • 江州(ごうしゅう)
    近江国(おうみのくに)のこと。現在の滋賀県。

  • 水清ければ魚棲まず(みずきよければ うおすまず)
    あまりに清廉すぎる人は、かえって人に親しまれず孤立してしまうことのたとえ

  • 讒訴(ざんそ)
    他人をおとしいれるため、目上の者や主人に、ありもしない事を告げること。

  • 御付け(おつけ)
    味噌汁のこと。

  • 書見(しょけん)
    書物を読むこと。

  • 購う(あがなう)
    買い求める。

  • 襖の風も厭う(ふすまのかぜも いとう)
    箱入りにして大切に育てられていること、弱々しいことのたとえ。

  • 帰参(きさん)
    (長らくほかに行っていた人が)帰って来ること。特に、一度主人の元から去った武士が、またもとの主人に仕えるようになること。

  • 碁会所(ごかいしょ)
    席料をとり、碁を打たせるところ。麻雀荘の囲碁版?

  • 昵懇(じっこん)
    親しくつきあう間柄。

  • 碁敵(ごがたき)
    碁の好敵手。

  • 襤褸を着てても心は錦(ぼろをきてても こころはにしき)
    見た目はみすぼらしくとも心までは落ちぶれていないということ。

  • さだめし
    きっと。まちがいなく

  • 大店(おおだな)
    規模の大きな店。

  • 南部風鈴(なんぶふうりん)
    南部鉄器でできた風鈴。

  • 頃おい(ころおい)
    その折。ころあい

  • 酒肴(しゅこう/さけさかな)
    酒と、酒のさかな。

  • 造作にあずかる(ぞうさにあずかる)
    ごちそうになる。もてなしを受ける。

  • 掛け(かけ)
    未払いの金。あとで清算する約束で行う売買。

  • 七度尋ねて人を疑え(ななたびたずねて ひとをうたがえ)
    物が見当たらないときなどは、よく探したうえで最後に他人を疑えということ。

  • 渇しても盗泉の水を飲まず(かっしても とうせんのみずを のまず)
    どんなに苦しいときであっても、決して不正なことは行わないことのたとえ。

  • 手は見せぬ(ては みせぬ)
    刀を抜く手が見えないほど素早く斬る。武士が相手を恫喝する際の文句。

  • お腹を召す(おはらを めす)
    切腹することを敬っていう言葉。

  • 明き心(あかきこころ)
    曇り・偽りのない心。

  • 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや)
    小人物には大人物の考えや志がわからないことのたとえ。

  • 尾羽打ち枯らす(おは うちからす)
    落ちぶれて、みすぼらしい姿になる。

  • 負うた子に浅瀬を教えられる(おうたこに あさせを おしえられる)
    時には自分より未熟な者・年下の者から教えられることもあるということのたとえ。

  • 女衒(ぜげん)
    女を遊郭に売る周旋を職業とする者。

  • 入山形に二つ星(いりやまがたに ふたつぼし)
    遊女を等級分けした案内書「吉原細見」の中で、最高級の花魁に付けられた印。

  • 大籬(おおまがき)
    吉原で最も格式の高い遊郭。

  • 文机(ふづくえ)
    書き物や読書をするための和風の机。

  • 煤払い(すすはらい)
    大掃除のこと。

  • はばかり
    トイレ。

  • 溜飲を下げる(りゅういんを さげる)
    不平・不満・恨みなどを解消して、気を晴らす。

  • 一陽来復(いちようらいふく)
    冬が終わり春が来ること。新年が来ること。

  • 新玉の新年(あらたまの はる)
    新年。正月。(「新玉」は「年」にかかる枕詞)

  • 切り通し(きりどおし)
    山や丘などを切り開いて通した道。

  • あんぽつの駕籠(あんぽつの かご)
    江戸時代の町駕籠の一種。竹製で、左右に畳表を垂らした。

  • 渋蛇の目の傘(しぶじゃのめ の かさ)
    中央とまわりに渋を塗った蛇の目傘。

  • 宗十郎頭巾(そうじゅうろうずきん)
    筒長の角頭巾(すみずきん)にながい錣(しころ)をつけたもの。(画像検索した方が早いと思います)

  • 煤竹羅紗(すすだけらしゃ)
    非常に高価な織物。「ばくちくらしゃ」ではない。

  • 長合羽(なががっぱ)
    江戸時代の雨具兼防寒着のうち、丈の長いもの。ラシャで作られる。

  • 柄袋(つかぶくろ)
    刀剣の柄を覆う袋。鍔(つば)までかけ、雨・雪の日などに用いた。

  • たばさむ
    手や脇にはさんで持つ。

  • 御支配(ごしはい)
    支配人・番頭等を敬った言い方。

  • 故主(こしゅ)
    もとの主人。旧主。

  • 江戸留守居役(えど るすいやく)
    諸藩に置かれた役職のひとつ。江戸に常駐し、藩と幕府の公務連絡、他藩との交際連絡を任務とした。

  • 意に染まない(いに そまない)
    気が進まない。気に入らない。

  • 健勝(けんしょう)
    健康がすぐれて元気なこと。

  • 厠(かわや)
    トイレ。

  • 鯉口(こいぐち)
    刀の鞘の口。

  • 心底(しんてい)
    心の底。




ここから本編



   語り:時は江戸。
      
      江州ごうしゅう彦根藩ひこねはんに、それはそれは 実直じっちょくな性格の さむらいがいた。
      
      名を 「やなぎ 格之進かくのしん」。
      
      たいそう 真面目まじめな男で、曲がったことが 大嫌い。
      商人しょうにんそでしたを 差し出そうものなら、怒って これを突き返し、
      仲間内なかまうちせいが あろうものなら、きびしく これを叱責しっせきするという、
      まこと さむらいかがみであった。
      
       ―― しかし。
      

   侍1:柳田のぅ……。
      真面目まじめなのは 分かるが、
      ちと 固すぎやせぬか……?

   侍2:同感でござるな。
      ああかとうては、
      まとまる話も まとまらぬわい。

   侍1:いかにも。
      融通ゆうずうというものが かぬで 困る。

   侍2:あいつと一緒に 仕事をしておると、
      わずかばかりの 手落ちにも 目くじら 立ててきおるで、
      面倒くさくていかん。

   侍1:さようさよう。
      気づまりで かなわん。
      

   語り:みず きよければ うお まず。
      真面目まじめではあるが、わたりが 上手うまいとは言えない 格之進、
      その実直じっちょくな性格が かえってあだとなった。
      
      ある日 とうとう 仲間のざんい、
      にんかれて、浪々ろうろうの身となってしまった。


      
      

  格之進:それがしが いったい 何をしたというのだ……。

 


 

   語り:なかば 国元くにもと彦根藩ひこねはんを 追われるようにして
      格之進が 流れてきたのは 江戸。
      
      妻は すでに亡く、娘の きぬと ふたり、
      浅草あさくさ阿部あべかわちょう貧乏長びんぼうながに 身を落ち着けた。
      
      城勤しろづとめの職を 失ったからと言って、
      すぐに 別の商売を 始められるほど 器用な性質たちではない 格之進は、
      日々 することもなく、がな 読書をして 過ごしていた。 *がな=一日中。

 


 

   きぬ:お父上、ご飯と 御付おつけの たくができました。

  格之進:おお、きぬ、かたじけない。

   きぬ:あ、ご書見しょけんの 途中でございましたか。
      お食事は もう少し 後になさいますか?

  格之進:いや、いただこう。
      
      (いつもは具なしの味噌汁に菜が入っているのを見て)
      ん、今日の味噌みそしるには が 入っておるではないか。
      いかが いたした?

   きぬ:今朝けさ、仕立ての おあてを ひとつ いただきましたので、
      その帰りに 青物あおものあがなってまいりました。

  格之進:さようか……。
      
      きぬ、すまぬな……。
      この父のせいで、そなたに ようの苦労を かけておる……。

   きぬ:何を おっしゃいます お父上。
      これしきの 暮らし、苦労のうちに 入りませぬ。


      

   語り:格之進の 一人娘・きぬは、父 在職ざいしょくおり
      箱入りにして 育てられた身であったが、
      現在は みずか針仕事はりしごとで わずかばかりの 給金きゅうきん
      父に代わって どうにか 家計を支えていた。


       

  格之進:武家ぶけむすめでありながら、
      父の しくじりゆえに、
      かような 裏長うらながでの 貧乏暮らし……。
      まこと 不甲斐ふがいない 父である。許せよ……。

   きぬ:お父上、きぬは、お父上が しくじりを なされたとは 思っておりませぬし、
      ましてや 不甲斐ふがいないと 思ったことなど 一度も ございませぬ。

  格之進:しかし、しゅを追い出され 浪々ろうろうの身となったは、
      ひとえに この父の とくが招いたこと……。

   きぬ:けれど、ゆえなき とがでしたので ございましょう?

  格之進:いかにも。
      放逐ほうちくを受ける われなど、少なくとも
      この父の身には 一切 覚えがない。
      
      こちらへ 移ってきてからというもの、
      己に いかなる 落ち度が あったのか
      いくも 考えてみたのだが、
      まったく 見当もつかぬ。
      ちゅうを 忘れたことなど ないし、
      勤めも 万事ばんじ おこたりなく こなしておった。

   きぬ:そうでございましょうとも。
      お父上ほど 謹厳きんげん実直じっちょくな おかたを、
      きぬは 他に 知りませぬ。

  格之進:ならば 何故なにゆえ……。
      
      まったく、何かの 間違いであるとしか 思えぬ……。

   きぬ:ええ、そうに違いございませぬ。
      何かの お間違いでございますれば、
      お父上の 身のきよさ、そのうちに 必ず
      明らかとなる はずでございます。

  格之進:そうで……あろうかの……。

   きぬ:はい。
      
      ですから、いつかきっと ごさんかないましょう。
      きぬは 信じておりまする。

  格之進:きぬ――
      
      じょうむすめよの……。
      つい このあいだまで、ふすまかぜいとと 思うておったが……。

   きぬ:まあ。
      そのように ひよわな ことでは、柳田の――
      武士の娘は 名乗れませぬ。

  格之進:ははは……、これは 柳田としたことが、
      たわけヽヽヽを申したな。許せ。

   きぬ:お父上、きぬは 大丈夫でございます。
      それに、わが身よりも、きぬは
      お父上のほうが 心配でございます。

  格之進:なに?

   きぬ:こちらへ 来てからというもの、
      めっに 外へも おいでにならず、
      うちの中で ご書見しょけんや お考え事ばかり
      なさっておいでで ございます。
      
      狭い部屋に 閉じこもられてばかりでは、
      おこころちも ふさいでしまう一方でしょうし、
      お身体からだにも いとは 思えませぬ。
      たまには 外を おあるきになっては いかがでございましょうか?

  格之進:そうは 申しても、なかなか さような気分には なれぬ。
      それに、外へ出たところで、おもしろいものも なかろう。

   きぬ:それが お父上、今朝けさ、帰りがけに 見つけたのでございますが、
      馬道うまみちほうへ 行く途中の つじに、会所かいしょが ございました。
      お勤めの頃は、よく お打ちに なってらしたでしょう?
      気晴らしに 一度 行かれてみては いかがでございますか?

  格之進:か……。
      
      そう申せば、など もう長く 打っておらぬの……。
      
      ふむ、日がな 本ばかり読んでおるというのも りょうであるしな。
      久々に かこんでみようかの。

   きぬ:それがうございます。

  格之進:きぬ。

   きぬ:はい。

  格之進:美味うまい飯であった。

   きぬ:それは うございました。

  格之進:では、さっそく 行ってまいる。

   きぬ:はい。お気をつけて 行ってらっしゃいまし。

 


 

   語り:格之進が 馬道うまみちほうへ向かって 歩いていると、きぬの言ったとおり
      辻角つじかどに「会所かいしょ」と書かれた 看板の かった建物があった。
      戸を開けてみると、中は 大勢おおぜいの客で ごった返していた。
      

  格之進:めん

   店主:どうも おいでなさいまし。
      えー、お相手は お決まりでいらっしゃいますか?

  格之進:いや、初めて参ったもので、相手は 決まっておりませぬ。
      もしよければ、どなたか 拙者の相手を 願いたいが。

   店主:さようでございますか。
      少々 お待ちくださいまし。
      
      (善右衛門に)
      よろず様、あちらの おさむらい様が、お相手を お探しだそうで。
      いかがでございましょう。

 善右衛門:おや、見かけないかただねぇ。

   店主:ええ。初めて おいでになったかたで。

 善右衛門:へえ。
      
      しかし わたしなんかのウデで、
      おさむらい様の お相手が 務まるかねぇ。

   店主:よろしいじゃございませんか。
      試しに ひとだけでも。

 善右衛門:そうだねぇ……。
      
      それじゃ、ひと お相手 願いましょうか。

   店主:ありがとうございます。
      
      (格之進に)
      おさむらい様、それでは こちらの よろず様と お手合わせを。

  格之進:おお、かたじけのうござる。

   店主:では、ゆっくりと お過ごしくださいませ。

 


 

 善右衛門:おはつに お目に かかります。
      わたくし、蔵前くらまえしち両替商りょうがえしょういとなんでおります、
      よろず 善右衛門ぜん え もんと申します。
      どうぞ お見知り置き くださいませ。

  格之進:拙者、江州ごうしゅうが浪人・柳田格之進と申す。
      ご昵懇じっこんに 願い申す。

 善右衛門:ありがとう存じます。
      

   語り:善右衛門ぜん え もんが 格之進に 白の石を譲り、
      ふたりは を打ち始めた。
      
      けんばなしをするでもなく、
      互いの 身の上を 話すでもなく、
      ふたりは ただ 黙々と 石を並べた。
      
      周囲は 喧噪けんそうで あふれていたが、
      格之進と善右衛門の間には、
      「ピシッ ―― 」「ピシッ ―― 」という、
      ばんに 石を置く音だけが ひびいていた。
      
      
      というものは、実力が拮抗きっこうしている者同士で 打つのが
      最も楽しいという。
      ちょうど ふたりの腕は 互角と見えて、
      互いに 勝ったり負けたりを 繰り返しながら、
      時間を忘れて 打った。


      

 善右衛門:柳田様、ありがとうございました。
      久しぶりに 楽しいが 打てました。
      また、お手合わせ願えればと思います。

  格之進:いや、それがしも 久しぶりに 楽しい時を 過ごさせてもらった。
      また ごえんがあれば、お相手を願いたい。

 


 

 善右衛門:ただいま 帰りましたよ。
      番頭さん、遅くなって すまないね。

  長兵衛:旦那様、お帰りなさいまし。
      今日は どちらかへ お寄りでしたか。

 善右衛門:いやいや、会所かいしょから まっすぐ 帰ってきましたよ。

  長兵衛:おや、そうでしたか。
      ではまた ずいぶんと遅くまで お打ちに なってらしたものですねぇ。
      お帰りが遅いもんですから、手前どもも 心配してたんでございますよ?

 善右衛門:いや すまなかった すまなかった。
      今日のが ことのほか 楽しくてね、つい時間を忘れて 打ってしまったよ。

  長兵衛:ほう。とすると、お相手は 堀川ほりかわの旦那様あたりですか。

 善右衛門:いやいや それが違うんだ。
      まあ、あれと打つのも楽しいがね。
      といっても、堀川ほりかわ相手に 時間を忘れるってのは、
      おしゃべりでだからね。は ついでみたいなもんだよ。
      わたしも上手なじゃないが、堀川ほりかわは 輪をかけて ヘボだからね。
      相手になりゃしない。

  長兵衛:はあ。

 善右衛門:ばんをはさんで くっちゃべってる ばかりでね。
      堀川ほりかわと打ってて いつも思うんだ、
      「これ、ばんの上にあるの、石じゃなくて
      お茶と団子で いいんじゃないか」ってね。

  長兵衛:ははは。
       でも堀川ほりかわの旦那様も が お好きなんでしょう?

 善右衛門:どうだかねえ。
      手は すぐに止まるくせに、口は ずっと動いてるからねえ。
      を打ちに来てんだか 駄弁だべりに来てるんだか 分かりゃしない。
      ま、それはそれで 楽しいから いいんだけどね。
      
      そこへいくと 今日は違ったよ。
      今日は 久々に、「」を楽しんだな。

  長兵衛:ふむ……。旦那様を で楽しませる お相手となると……、
      あか様……、
      いや 越前えちぜん様か……。

 善右衛門:いやいや。そんな馴染なじんだ顔じゃなくてね。
      今日 初めて お会いしたかたなんだよ。

  長兵衛:おや、さようでございましたか。

 善右衛門:まあ初対面しょたいめんの人と かこむなんてのは
      よくある事だけどね、
      それで 時間を忘れるほど に夢中になるなんて、
      そうそう あるもんじゃないよ。
      ごころが通じるのは勿論もちろん
      じょう下手へただって 同じくらいでないと、
      そうはいかない。
      どっちかが うますぎたり ヘボすぎたりしたら、
      やっぱり つまらなくなるからね。

  長兵衛:なるほど。
      では、旦那様は 本日ほんじつがたきに めぐりわれたと。
      いったい どのような おかたで?

 善右衛門:それがね、おさむらいさんなんだ。

  長兵衛:さむらいですか。

 善右衛門:柳田格之進と おっしゃる おかたで、
      今は ゆえあって 浪人なさっているそうなんだがね。

  長兵衛:浪人――

 善右衛門:ひと 向かい合った時から
      ただの町人らしからぬ 雰囲気は 感じていたんだがね。
      おさむらいさんと聞いて 得心とくしんがいったよ。
      「襤褸ぼろは着てても 心はにしき」とは よく言ったものだねえ。
      りんとして ご立派な おかただった。

  長兵衛:はあ。しかし、今は ご浪人なさってるんでしょう?
      いったい どういうわけで ご浪人を?

 善右衛門:聞いてないよ、そんな 立ち入ったこと。
      ましてや 初対面しょたいめんなのに。

  長兵衛:なんだか 怪しいような気が しますがねえ……。
      浪人なんて、たいの知れない もんですよ。
      旦那様は「ご立派なかた」だなんて おっしゃいますがね、
      そりゃ お人が すぎるというものですよ。

 善右衛門:そうかい?

  長兵衛:だって、本当に ご立派なかたが、浪人なんて するもんですかね。
      何か しくじりが あったからこそ、ごしゅを 追い出されたワケでしょう?
      ロクな者ではないと 思いますがねえ……。

 善右衛門:いいじゃないか、
      ご浪人なさってる理由なんか どうだって。
      人には それぞれ 事情というものが あるんだよ。
      
      お前さんは さむらいと聞けば、
      刀 ちらつかせて 威張いばってるやからばかりだと
      思ってるようだけれど――まぁ そういうのも 多いんだが……。
      柳田様は 違ったよ。
      横柄おうへいなところなんて 少しも無くて、
      それは 礼儀正しい お人だった。
      おさむらいの中にも、ああいった人が いるんだねえ――

  長兵衛:……。

 


 

  格之進:きぬ、今 帰った。

   きぬ:お帰りなさいませ お父上。
      気晴らしには なりましたか?

  格之進:うむ。たいそういものであった。

   きぬ:まあ。
      それは おすすめした甲斐かいが あったというものでございます。
      
      いかがで ございましたか? 久しぶりの は。

  格之進:さるしょうあるじという男と かこんだのだがな、
      好人物こうじんぶつであった。
      さだめし 裕福な 身の上であろうが、
      それを 鼻にかけるふうでもなく、
      かといって びるでもない。
      あきないの売り込みどころか
      無駄むだぐちのひとつも 叩かぬ。
      おかげで に集中できた。
      の腕前も 互角ぐらいでな、
      いや、まことがたきに 巡りうた。

   きぬ:それは ようございました。

 


 

   語り:あくる日も 格之進が 会所かいしょへ出かけると、
      よろず 善右衛門ぜん え もんも 来ており、
      ふたりはまた「ピシッ ―― 」「ピシッ ―― 」。
      黙々とを打った。
      
      そのまた あくる日も 格之進は
      会所かいしょ善右衛門ぜん え もんと会い、
      ふたりでを打った。
      
      結局、この一週間というもの、
      格之進は 毎日 会所かいしょへ出かけ、
      毎日 よろず 善右衛門ぜん え もんを打った。

 


 

 善右衛門:柳田様、今日も ありがとうございました。

  格之進:こちらこそ、今日も 楽しゅうござった。
      では、めん

 善右衛門:あ、柳田様、お待ちくださいまし。

  格之進:ん?

 善右衛門:あの、わたくし、少し考えたのでございますが ――

  格之進:何でござるかな?

 善右衛門:この一週間、柳田様は、ここで
      わたくし以外の者と お打ちになりましたか?

  格之進:いや、拙者は よろず殿どのとしか 打っており申さぬ。

 善右衛門:わたくしも 柳田様としか 打っておりませぬ。
      となれば、なにも わざわざ 会所かいしょで打つ必要も ないでしょう。
      手前ども、ここから ほど近いところに ございます。
      はなれが ございましてね、ここと違って 静かですし、
      多少の おもてなしも できます。
      
      いかがでございましょう?
      明日あしたからは 手前どものほうへ お越しいただいて、
      お手合わせを していただくというのは。

  格之進:……。
      
      よろず殿どの、ありがたい話でござるがの、
      拙者は 一介いっかい浪人者ろうにんものでござる。
      そんなたいの知れぬ者が
      殿でんのようなしょうに 出入りしては、
      迷惑であろうゆえ……。

 善右衛門:何の迷惑が あるものですか。
      主人である わたくしが、是非ぜひにと言って
      お誘いしているのでございます。
      
      こんなことを 申し上げては 失礼に当たるかもしれませんが……、
      わたくしは 柳田様を、身の上などは 関係なく、
      良きがたき、良き友人として お招きしているのでございます。
      
      どうか、手前どものほうへ お越しくださいませ。

  格之進:まことに ありがたいお言葉でござるが……しかし……。
      うーん……。
      そうじゃのう……。
      
      では明日あす……、もし 気が向いたならば、
      うかがうと しようかの……。

 


 

   語り:そして あくる日。
      
      よろず 善右衛門ぜん え もんは、
      ただ待っていたのでは、
      格之進は 遠慮えんりょの気持ちを起こして
      来られないのではと 危惧きぐし、
      阿部あべかわちょうの長屋まで 迎えにあがるよう、
      番頭のちょう兵衛べえつかいにやった。

 


 

  長兵衛:うちの旦那様にも 困ったものだ……。
      よりによって 浪人なんぞを 招くなんてな……。
      そんな怪しいヤツが ウチみたいな 大店おおだな
      出入りしてるなんて うわさが立ったら、
      客足きゃくあしひびくかも しれないってのに……。
      かと言って、ぞうの使いじゃ ないからなぁ、
      番頭の俺が つかわされといて
      「お連れ できませんでした」じゃ すまねえもんなぁ……。
      (ため息)仕方ねえ……。
      
      (格之進の長屋に着く)
      ええと、この長屋だな。
      しっかし 汚い 長屋だなぁ……ボロボロじゃないか……。
      
      (ため息)気は進まねえけど……。
      (戸口の外から中に向けて)
      (営業モードに切り替え、にこやかに礼儀正しく)
      ごめんくださいまし、ごめんくださいまし。
      こちらは 柳田様の お宅でございましょうか?

   きぬ:(出てくる)
      はい。どちら様でしょうか?

  長兵衛:(一瞬みとれる)
      あ……。
      
      わ、わたくし、よろず 善右衛門ぜん え もんの店の 番頭で、
      長兵衛と申します。
      柳田格之進様は いらっしゃいますでしょうか?

   きぬ:あ、さようでございますか。
      父でしたら 奥で書見しょけんを しております。
      ただ今 呼んでまいりますので、
      お待ちくださいませ。(奥へ去る)
      

  長兵衛:今のは……、むすめ ――
      いや、こんな 貧乏長びんぼうながには 似合わない 美しい人だ……。
      めにつるとは、まさに このことだな。
      
      しかし、着ている物も ずいぶん いたんでいたな……。
      年頃の娘さんが あんなボロを着て……おかわいそうに……。
      

  格之進:お待たせいたして 申し訳ござらん。
      よろず殿どのから つかいに 来られたそうで。

  長兵衛:はい。わたくし、番頭の 長兵衛と申します。
      手前どものあるじが、柳田様を お招きでございまして。

  格之進:ああ―― 、そのことでござるが……。
      やはり 拙者のような者が しょうに 出入りするというのは……

  長兵衛:(個人の本心は おくびにも出さず、礼節を保って)
      いえ、あるじも、柳田様が そのように 遠慮えんりょを なさるだろうと思い、
      なんとしても 柳田様を お連れ申し上げろ ということで、
      わたくしが こうして お迎えに あがったのです。
      このまま1人で帰ったのでは、わたくしがあるじに 叱られてしまいます。
      ここは ひとつ、番頭である わたくしの顔を 立てていただいて、
      手前どもへ おいで願えませんでしょうか。

  格之進:さようでござるか……。
      
      あい分かり申した。
      では、お招きに あずかるといたそう。

  長兵衛:ありがとう存じます。

 


 

  長兵衛:旦那様、柳田様を お連れいたしました。

 善右衛門:ああ、番頭さん、おかえり。
      ご苦労だったね。

  格之進:めん

 善右衛門:おお、柳田様!
      お待ちしておりました!
      ただいま はなれへ ご案内いたしますのでね。
      
      (小僧の定吉を呼ぶ)
      これ 定吉さだきち定吉さだきちや!

   定吉:はーい。

 善右衛門:あとで はなれへ、わたしの分と 柳田様の分、
      お茶を 2つ 持ってきておくれ。

   定吉:はーい。かしこまりましたー。

 善右衛門:(長兵衛に)
      では番頭さん、わたしは はなれに いるからね。
      お店のこと、頼んだよ。

  長兵衛:しょういたしました。

 善右衛門:では 柳田様、まいりましょう。

 


 

   定吉:あれが、だんな様が いつも言ってる、やなぎだ様かぁ。
      
      (長兵衛に)
      番頭さん、オイラ、もっと コワい人かと思ってた。
      おさむらい様なんでしょう?

  長兵衛:さむらいと いったって、今は浪人だ。

   定吉:ろうにん って何?番頭さん。

  長兵衛:ご主君しゅくんから、国を 追い出された さむらいだ。

   定吉:え、やなぎだ様、国を おいだされちゃったの!? どうして!?

  長兵衛:そんな事は 知らんさ。
      いずれにせよ、重大な しくじりをしたか、
      または からぬことを して
      ご主君しゅくんの怒りを 買ったんだろう。

   定吉:よからぬこと、って?

  長兵衛:たとえば、いたずらに 町の人間を 斬ったとか、
      殿様とのさまの金に 手をつけたとか。

   定吉:えー! そんな人には 見えなかったけどなぁ……。

  長兵衛:浪人なんて たいの知れないものだ。
      ああ見えて 手クセの悪いところが 無いとも限らない。

   定吉:そうかなぁ……。

  長兵衛:定吉さだきち。お茶を持っていったらな、
      あの男に 何か 不審な 素振そぶりが 無いか、
      注意しておきなさい。

   定吉:ええ~?
      番頭さん、そんなに疑っちゃあ、
      やなぎだ様が かわいそうじゃありませんか?

  長兵衛:そんなことは ない。
      店をあずかる番頭として、当然の心配だ。
      
      旦那様は たいそう人がくていらっしゃる。
      それは とても いいことだが、いつ どんな人間が
      そこに つけこんでくるか 分かったもんじゃない。
      浪人者ろうにんものと 付き合う なんてのは、
      わたしからすれば 喜ばしい事じゃないが……、
      旦那様が あれほど ご友人として
      大切に なさってるんじゃ しょうがない。
      わたしは 番頭として、
      用心しておきたいと 思っているだけだ。
      
      ……ま、とにかく、お茶 持っていって さしあげなさい。

   定吉:はーい。

 


 

 善右衛門:柳田様、こちらでございます。
      

   語り:格之進が 案内された はなれは、
      過度かど装飾そうしょくはぶいた 小綺こぎれいな 8じょうしき
      
      三方さんぽうはなたれており、
      職人の手入れが 行き届いた 庭を 眺めれば、
      鹿威ししおどしを しつらえた池が 一方いっぽうにあり、
      赤や白の こいが 泳いでいる。
      
      のきに吊るされた なん風鈴ふうりんが、
      時折ときおり 「チリン、チリン」と
      すずやかなを 聞かせる、
      まことに 風流な 空間であった。
      

 善右衛門:さ、柳田様。どうぞ お座りになってくださいまし。
      さっそくひと、始めましょう。

  格之進:これは……、実に立派な ばんでござるな。

 善右衛門:なにしろ が好きなものですから、
      道具にも りましてね。
      このばんと石も、いくぶんは張りましたが、
      たいそう 気に入っております。

  格之進:まことに 結構けっこうなものでござる。
      また この部屋も、眺めは いし 涼しいし、
      会所かいしょとは 天と地でござるな。

 善右衛門:お気にしていただけて 何よりでございます。
      ささ、ひと、まいりましょう

 


 

   語り:そうして、これまでと同じように、
      善右衛門が 格之進に 白の石を譲り、
      ふたりは を打ち始めた。
      
      けんばなしを するでもなく、
      互いの 身の上を 話すでもなく、
      ただ 黙々と 石を並べた。
      
      ぞう定吉さだきちが 茶をきょうして 下がったのち
      はなれに 人声ひとごえは絶え、
      「ピシッ ―― 」「ピシッ ―― 」という、ばんに 石を置くおとに、
      時折ときおり鹿威ししおどしの「コーーン……」というひびきが重なった。
      
      会所かいしょ喧噪けんそうとは 打って変わった せいじゃくの中、
      ふたりは これまで以上に 時を忘れて を打った。

 


 

  格之進:いやよろず殿どのごこさに すっかり 長居つかまつった。

 善右衛門:いや わたくしも、
      ついつい夢中で 打ってしまいました。
      
      お茶を足すのも 忘れてしまいまして、
      申し訳ない事でございました。

  格之進:いやいや、もてなしは もう ぶんたまわり申した。
      かようにふうな場所で を打てるだけで
      拙者は 大満足でござる。

 善右衛門:そう言っていただけて 何よりでございます。

  格之進:ずいぶんと 遅くなり申した。
      では今日は これで 失礼つかまつる。
      かたじけのうござった。

 善右衛門:あ、柳田様、お待ちください。
      
      いかがでございましょう、
      あちらに 一献いっこんたくを させますので、
      おし上がりになって いかれませんか?

  格之進:いや。
      こちらに 上げていただくのも はばかられること。
      その上 そのような ごぞうに あずかるわけには 参り申さぬ。
      ごこう まことに かたじけのうござるが、
      その おこころづかいだけ ちょうだいし、今宵こよいは ごれいをいたす。

 善右衛門:さようでございますか……。
      では、また、こちらで のお相手を 願えますでしょうか。

  格之進:それが、まこと よろず殿どのの ご迷惑に ならぬのであれば……。

 善右衛門:何の 迷惑なことが ございましょうや。
      毎日でも 遊びに いらしてくださいませ。

  格之進:では……、たびたび お邪魔いたそうかの。

 善右衛門:ええ!是非ぜひ そうなさってくださいませ。


      

   語り:帰ってゆく格之進の 後ろ姿を 見送りながら、
      よろず 善右衛門ぜん え もんは、
      
      「さむらいの中にも これほど実直じっちょくかたが いらっしゃるのだ。
       このような人物じんぶつしょうがいともに なることができたら、
       どれほど素晴らしい事だろう」
      
      と こころうちで 思うのであった。

 


 

   語り:格之進は よろず足繁あししげく 通うようになり、
      よろずはなれで ふたりは 毎日のように を打って過ごした。
      
      
      暑い夏が 過ぎ、
      すすきのが 日に照らされて キラキラと輝く 秋の ころおいヽヽヽに なった。

 


 

   定吉:(格之進の長屋の前で)
      ごめんくださいまし!
      やなぎだ様! ごめんくださいまし!

  格之進:どなたで―― おお、そなたは、
      よろず殿どのの店の ぞうさんではないか。

   定吉:はい!定吉さだきちと申します!

  格之進:はっはっは。
      しっかり挨拶あいさつができて えらいのぅ。
      
      して、今日は どうしたのじゃ?

   定吉:はい! 今日は、じゅう五夜ごやでございます!

  格之進:おお……。そういえば そうであったな。
      それが、如何いかがしたか?

   定吉:はい。まいとしじゅう五夜ごやに、てまえどもでは
      「おつきかい」を するのでございます。

  格之進:ほぉ……おつきかい……。

   定吉:はい。
      出入りの お職人さんや お客様や、
      近所の人たちを 呼んで、
      ご主人も 店の者も みんな いっしょになって、
      お月様を見ながら、お酒を飲んだり、
      おだんごを たべたりして 楽しむんです。
      それで、今年のおつきかいには、
      やなぎだ様も、おじょう様も、
      ぜひおいでくださいと、
      てまえどもの 主人が もうしますので!

  格之進:さようか……。
      
      いや、お招きはかたじけないがの……。
      わしは 見てのとおり 貧乏浪人だ。
      
      日々 の お相手に 上がるだけでも ぶん待遇たいぐう
      この上、酒肴さけさかなそうにまで あずかるわけには参らぬ。
      ましてや そのような 晴れがましい席に わしのような者、
      場違いに 過ぎるでな……。
      
      すまぬが ぞうさん、たび遠慮えんりょ 申し上げると よろず殿どの ――

   定吉:(泣く)うわーん!

  格之進:これこれ、どうしたのじゃ?
      何を 泣くことがある?

   定吉:うっうっ。
      ご、ごしゅじんが、かならず、
      やなぎだ様を、おつれ、しなさい、って。
      もし、やなぎだ様を、おつれできずに、
      ひとりで帰ってきたりしたら、
      おまえのぶんの、おだんごは、ないぞ、って。
      だから、やなぎだ様が、
      いっしょに いってくれなかったら、
      オイラ、おだんご、たべられないんです。
      う、う、うわああん。

  格之進:(かわいらしい理由になごみ、思わず笑う)
      はっはっはっは。
      そうか、そうであったか。
      いや、これは わしが悪かった。
      
      分かった 分かった。行く。
      な? わしも行くから、もう泣かなくてよい。

   定吉:ほんと?

  格之進:ああ。だから安心しなさい。

   定吉:ありがとうございます!やなぎだ様!

  格之進:では 少したくをするでな、
      ここで待っていておくれ。

   定吉:はい!

 


 

  格之進:きぬ、よろず殿どので 今日、
      月見のうたげが あるそうでな、
      その お招きに あずかった。
      
      そなたも一緒にと 申されるで、どうだ?
      一緒に 参らぬか?

   きぬ:はい……。きぬも、行きとう存じますが……、
      明日あしたまでに 仕上げなければならない 立物たてものが ございますので……、
      たびは、どうぞ お父上おひとりで、お出ましくださいませ。

  格之進:……。
      
      きぬ……、すまん。

   きぬ:よろしいんですのよ お父上。
      わたくしのことは ――

  格之進:きぬ。
      
      明日あすまでに 仕上げねばならぬ 立物たてものが あるというのは ――
      
      嘘であろう。

   きぬ: ――
      
      いえ……

  格之進:きぬ……、許してくれ……。
      父が、かつであった……。
      
      そなたが うたげの席へ 着て行く 着物1枚すら、
      もう、売りに出してしまっていたのだったな……。
      すまぬ……。

   きぬ:……。

  格之進:きぬ。わしも、行くのは そう。

   きぬ:それは なりませぬ!

  格之進:いや、そなたが 行かれぬのは、
       わしの甲斐かいしょうが 無いせいじゃ。
      それなのに、わし ひとりが 行くことなど できん。

   きぬ:なりませぬ。
      もう、行くと おっしゃったのでしょう?

  格之進:聞いておったのか……。
      いや、かような ボロだ、聞こえぬはずが無いか……。
      
      なに、また断ればよい。

   きぬ:(真剣な表情。格之進の目をまっすぐに見すえ)
      お父上。武士が ごんを申しては なりませぬ。

  格之進:……!

   きぬ:たとえ相手が としの ゆかぬ ぞうさんであっても、
      お父上が、柳田格之進が、
      男の約束を たがえるなど、
      わたくしが しょういたしませぬ。

  格之進:きぬ……。

   きぬ:(優しい表情になって)
      それに、お父上が 行ってさしあげなければ、
      ぞうさんは お団子を 食べそこねてしまうのでしょう?
      それではぞうさんが かわいそうです。
      ですから、どうぞ 行ってさしあげなさいまし。

  格之進:(行くのはためらわれるが、きぬの言にも理がある)
      ……。
      
      きぬ、すまぬな……。
      では……、行ってまいる。

   きぬ:(優しく微笑み。手をついて)
      はい。お気をつけて 行ってらっしゃいまし。

 


 

   語り:ぞう定吉さだきちと 連れ立って、
      格之進は 出かけて行った。

 


   

   語り:月見のうたげは たいそうにぎわったものだった。
      よろずゆかりのある者たちが 大勢おおぜい 参会さんかいしており、
      たくさんの酒肴しゅこうが 用意されていた。
      
      初めのうちこそ、格之進に こうを 向ける者もいたが、
      うたげが進むにつれ、おのおの、月をで、酒を楽しみ、
      酒席しゅせきの たけなわを 形作かたちづくっていった。
      
      格之進は、きぬの事を思うと
      決して 心から楽しむものでは なかったが、
      善右衛門ぜん え もんすすめられるがまま、
      名月めいげつさかなさかずきを 重ねていた。

 


 

 善右衛門:いやぁ柳田様、今日のご参会さんかい
      まことに ありがとう存じまする。

  格之進:いや拙者のほうこそ、結構けっこうぞうにあずかり、かたじけのうござる。

 善右衛門:ところで柳田様。いかがでございましょう?
      はなれに 参りませんか?

  格之進:と申されると、でござるか?

 善右衛門:ええ。月見酒つきみざけいものですがな、
      わたくし、先ほどから 月を見ておりますと、
      どうにも あれが いしに見えて 仕方ありませんでな。

  格之進:はっはっは。結構けっこうでござるな。
      拙者のほうも、かように賑々にぎにぎしい席より、
      そちらのほうしょうに 合っており申す。

 善右衛門:では そういたしましょう。
      
      (長兵衛を呼ぶ)
      番頭さん!番頭さーん!

  長兵衛:はい、旦那様。

 善右衛門:ちょいとね、柳田様と を打ってくるから、
      後のこと 頼んだよ。
      何か あったら、わたしは はなれにいるから。

  長兵衛:しょういたしました。

 善右衛門:(格之進に)
      では柳田様、参りましょうか。

 


 

   語り:月見のうたげさかりを迎えていた。
      酔って 女中じょちゅうを からかう者がいる、
      唄を歌いだす者がいる、
      それに合わせて 踊る者がいる、
      あるいは けんを始める者、止める者がいる ――
      
      そんな喧噪けんそうをよそに、
      はなれの ふたりは、夢中で を打っていた。

 


 

  長兵衛:(離れに入ってくる)
      失礼いたします。
      (善右衛門に)
      あの、旦那様。

 善右衛門:(碁に集中している。生返事)
      んー?

  長兵衛:お楽しみのところ、
      お邪魔をして 申し訳ありません。
      
      先ほど、水戸みと様のところの つかいのかたが、
      先日の掛けヽヽの 50両を お持ちになりまして、 *け=未払いだったお金。
      わたくし、預かってまいりました。

 善右衛門:(碁に集中している)んー。

  長兵衛:それで、旦那様にも おあらため 願いたいと思いまして、
      お持ちしたんで ございますが……。
      
      (主人は聞いてるか怪しい)
       ―― あの、旦那様……?

 善右衛門:(うわの空で)
      んー……。
      ああはい、預かります預かります。

  長兵衛:はあ……。
      
      (お金を手渡して)
      では、これを。

   定吉:番頭さーん、ちょっと来てくださいましー!

  長兵衛:では旦那様、たしかに お渡ししましたので、
      おあらため、お願いしますよ?
      では、失礼いたします。

 善右衛門:(生返事)んー。
      
      (碁の手を考えている)
      ん~……。

 


 

   語り:こうして ふたりはまた 時を忘れて を打った。
      
      ふとおもてを見ると、月は もはや 中天ちゅうてん高く えわたっていた。

 


 

 善右衛門:いやはや、また夢中で 打っておりまして。
      ずいぶんと 遅い時間に なってしまいましたな。
      お嬢様が ご心配されるといけません。
      今宵こよいは お開きといたしましょうか。

  格之進:さようでござるな。
      いや、今日はまこと 結構けっこうぞうにあずかり、
      かたじけのうござった。

 善右衛門:こちらこそ 楽しゅうございました。
      では、おもてまで お送りいたしましょう。ささ。
      
      (定吉に声をかける)
      ああ、定吉さだきち

   定吉:はーい。

 善右衛門:柳田様が お帰りになる。
      あれを、柳田様に。

   定吉:はーい。
      (なにやら包みを差し出して)
      やなぎだ様、こちらを どうぞ。

  格之進:これは……?

 善右衛門:すくのうございますがな、今日の料理、
      お嬢様への お土産みやげにと、
      包ませていただきました。
      どうぞ、お持ちになってください。

  格之進:これは、何から何まで 痛み入り申す。かたじけない。

 善右衛門:来年は是非ぜひ、ご一緒に お越しいただければ うれしゅう存じます。

  格之進:そうじゃの……。
      
       ―― では、ごれい つかまつる。

 善右衛門:お気をつけて、お帰りくださいませ。

  長兵衛:お気をつけて お帰りくださいませ。

   定吉:おきをつけて、おかえりくださいませー!

 


 

 善右衛門:番頭さん、どうもありがとう。
      遅くなっちゃって すまなかったね。

  長兵衛:いえいえ。それは よろしいんでございますが……。
      
      先ほどの、水戸みと様から ちょうだいした50両ですが ――
      あれは、店のちょう簿に 付けましょうか?
      それとも、旦那様の ごちょうめんに お付けになりますか?

 善右衛門:ああ、水戸みと様のけなら、わたしのちょうめんだね。
      なんだい、水戸みと様が 50両 払ってくれたのかい?
      じゃ、もらいますよ。

  長兵衛:いえ 旦那様……。あの……、
      わたくしが、水戸みと様の つかいのかたから
      50両 預かりましてですね、
      先ほど、はなれのほうへ お持ちしたじゃ ありませんか。

 善右衛門:え?そうだったかい?

  長兵衛:そうですとも。
      旦那様は に夢中で、
      お聞きに なってるんだか なってないんだか
      分からないような 具合でしたが……、
      たしかに お渡ししましたよ。
      お忘れなんですか?

 善右衛門:ああ ――
      
      そういえば お前さん、来てたねえ……。

  長兵衛:ええ。その時に、50両の包みを
      お渡ししたじゃありませんか。

 善右衛門:ああ……、そういえば、
      そんなような物を、受け取ったような……。

  長兵衛:いやいや、しっかり なさってくださいよ 旦那様。
      わたくし、たしかに お渡ししたんですから!
      
      今、お持ちじゃないんですか?
      たもととか、ふところとかに。

 善右衛門:ん~……(ごそごそ)
      いや……、ないねえ……。

  長兵衛:いやいや!
      「ないねえ」じゃ ありませんよ旦那様!
      50両ですよ 50両!
      
      いま 旦那様が お持ちでないのなら、
      どこにあるんですか!

 善右衛門:まあまあ 落ち着きなさいよ。
      はなれで を 打ってるときに それを 受け取ったんだから、
      はなれの、ばんの近くにでも 落ちてるに 決まってるじゃないか。
      すぐに見つかるよ。
      ちょっと探しに行こう。

  長兵衛:は、はあ……。
      もう、用心ようじんじゃありませんか。
      気をつけてくださいませんと……。

 


 

      2人して 離れの中を捜している。

 善右衛門:どうだい?あったかい?

  長兵衛:ありませんねえ……。

 善右衛門:ない……?
      おかしいねえ……。

  長兵衛:ばんの下にも ありませんでしたし、
      座布ざぶとんまで ひっくり返して 見ましたが、
      やっぱり ありませんよ。

 善右衛門:ん~……、そんなはずは ないんだが……。

  長兵衛:……。
      
      
       ―― あの、旦那様。
      
      
      ことによると……、
      
      柳田様が お持ちになったんじゃ ありませんか……?


 善右衛門:(怒りを含んで。長兵衛をにらみつけ)
      ……お前さん、今 何て言った。
      
      柳田様が お持ちになった?
      どうして そんなことに なるんだ。
      めっなこと 言うもんじゃないよ。

  長兵衛:あ、いや、例えば ですよ……?
      わたくしが、こう、旦那様に 50両をお渡しして、
      それを 旦那様は、こう、ひざうえで 持ちながら、
      を打ってらっしゃった。
      
      旦那様は、その……、
      を お打ちになると 夢中に なられますから、
      何かのひょうに、そのきんが、こう、
      ひざから落ちて、ころころっと、柳田様の前に……。
      
      柳田様は、こう申し上げては 失礼ではございますが、
      ずいぶんと 貧しい 身の上で いらっしゃるようですから、
      そのきんを見て、つい魔が差して ――

 善右衛門:やめないか!
      黙って 聞いてれば 何だ!
      
      それじゃ何かい、
      柳田様が その50両を 盗んだと、
      お前さんは そう言うのかい!

  長兵衛:いや、別に ハッキリと そう申し上げるわけでは……。
      
      もしかしたら、こう……、
      今夜は 柳田様も いくらか お酒を してらっしゃいましたので、
      その、きんをですね、
      ご自分の 煙草たばこれか 何かと お間違えになって、
      こう、ふところに……

 善右衛門:いい加減にしないか!
      「七度ななたび たずねて ひとうたがえ」という言葉を 知らないのかい。
      お前さんは、柳田様が ご浪人なさってる というだけで
      そうやって 疑ってかかるようだがね、
      柳田様は 決して そのようなことを なさるおかたじゃないんだ!

  長兵衛:しかし ――

 善右衛門:もういい!
      
      あの50両は、わたしの ちょうめんだって 言ったろ?
      わたしの づかいだ。
      それが なくなろうが どうしようが、
      店にも お前さんにも 関わりの 無いことじゃないか!
      どうせ そのうち どっかから 出てくるだろうし、
      出てこなきゃ 出てこないで、別に かまや しないんだ。

  長兵衛:いや、でも……

 善右衛門:わたしが いいと言ってるんだ!
      50両のことは忘れて、もう寝なさい!
      わたしも もう寝る!

 


 

   語り:寝ろと言われて とこいたものの、
      長兵衛は くやしくて なかなか 寝付けなかった。
      
      自分は 長年ながねん よろず奉公ほうこうし、
      あるじちゅうを尽くしてきた。
      にもかかわらず、
      こんな 怪しげな 金のかたを 見てもなお
      あるじは 柳田にかたれし、
      自分の言うことに 耳を貸してくれない。
      
      金は あの浪人者ろうにんものったに決まっている。
      やつを 信じ切っているあるじには それがわからないのだ。
      
      なんとかあるじの目を 覚まさせてやらねばならない。

 


 

   語り:翌朝 ――
      
      長兵衛は ひとり、格之進の長屋へと おもむいた。

 


 

  長兵衛:(表向き まだ にこやかに)
      ごめんくださいまし!
      おはようございます 柳田様!
      よろずの店の 長兵衛でございます!

  格之進:おお、これはよろず番頭殿ばんとうどの
      ゆうべは 結構けっこうな ごぞうに あずかり、
      かたじけのうござった。

  長兵衛:(柳田を疑っているが、あくまで表向きは にこやかに)
      いえいえ、とんでもございません。
      ご満足いただけたのでしたら、さいわいで ございます。

  格之進:して ―― 、こんな朝から、いかがなされた?

  長兵衛:ええ。実は、柳田様に ――
      少々 おたずねしたい事が ございまして……。

  格之進:ほう……?
      何でござるかな。

  長兵衛:わたくし、昨夜ゆうべ
      お得意様とくいさまから 50両の けを ちょうだいいたしまして、
      それをですね、はなれの あるじのところへ
      持って参ったんで ございますが ――

  格之進:ああ ――
      そういえば の途中で、来ておられたな……。

  長兵衛:ええ。
      
      それで、その50両を あるじに 渡したんですが、
      あとになって、その金が 紛失ふんしつしているのが 分かりまして。

  格之進:ほう。

  長兵衛:それで……、
      
      その50両の行方ゆくえなんですが……、
      
      柳田様が、その……、
      ご存知では いらっしゃらないかと、
      おたずねしたく 存じまして……。

  格之進:……?
      
      その金と拙者と、なんの関わりがある。

  長兵衛:ええ、ですから……、
      
      ひょっとすると、
      
      柳田様が お持ちになっては いらっしゃらないかと……

  格之進:(怒気を含んで)
      馬鹿を申せ。
      そのようなことが あるか。
      
      では何か。
      拙者が その金を 盗んだと申すか。

  長兵衛:ああいや、決して そういうわけでは……

  格之進:浪々ろうろうの 身なれど、身どもヽヽヽは 武士だ!
      かっしても 盗泉とうせんみずまん!

  長兵衛:ああ いえいえ、
      何も 柳田様が、わざと おりになった などと
      申し上げているわけじゃ ございません。
      
      例えばその……、
      わたくしが あるじきんを 渡しまして、
      それを あるじがこう、ひざうえに持って を 打っておりましてね、
      で、なにかの はずみで きんが こう……、ひざうえから落ちて、
      ころころっと 柳田様の お膝元ひざもとに 転がってですね……、
      で……、ゆうべはその……、
      ま、いくらかお酒も し上がってらっしゃいましたし……、
      煙草たばこれか 何かと お間違えになって、
      こう……、ふところへ……

  格之進:たわけた事を 申すな!
      いかに 酔っておっても、
      金包かねづつみと 煙草たばこれを 取り違える 柳田ではない!
      これ以上 れいかすと、手は見せんぞ! *手は見せんぞ≒ブッタ斬るぞ。

  長兵衛:ああ いえいえ!
      決して そのようなつもりで うかがったんじゃ ございません。
      ただ、ひょっとしたら、ご存じなのでは ないかなぁと
      思っただけで ございまして……

  格之進:知らん!

  長兵衛:(なだめるように)
      ええ、ええ 分かりました。
      申し訳ございませんでした。
      どうか、お静まりください。
      
      
      では ――
      
      本当に ―― 、ご存知ないと、
      おっしゃるんですね ――

  格之進:くどい!
      そのような金、知らんと言ったら 知らん!

  長兵衛:……わかりました。
      結構けっこうで ございます。
      柳田様が ご存じないと おっしゃるのであれば、
      それまでで ございます。
      
      ただ ――
      
      50両といえば 大金でございます。
      そんな大金が 紛失ふんしつしたのですから、
      わたくしはよろずの番頭として、
      このまま 放っておくわけには まいりません。
      
      このことを、わたくし、これから この足で、
      ぎょうしょへ 届け出て参ります。

  格之進:ぎょうしょ ――

  長兵衛:つきましては、柳田様も 当日 その場に いらっしゃいましたので、
      今日か明日あすにも、お取り調べ ということで
      ぎょうしょの お役人が こちらに 来られるかもしれませんが、
      それは ごしょうおき ください。
      
      では、お話は 以上ですので、
      わたくしは これで失礼をいたします。

  格之進:待て。

  長兵衛:何でございましょう。

  格之進:ぎょうしょへ、届け出ると申すか……?

  長兵衛:はい。

  格之進:それは……、思いとどまっては くれまいか。

  長兵衛:これは ことを おっしゃいます。
      
      50両もの金が なくなって、
      探しても 出てこない、誰も 行方ゆくえを 知らないとなれば、
      わたくしどもには もう 手詰てづまりでございますからね。
      おかみに頼る他 ございませんので。

  格之進:……。
      
      その50両、拙者がようてると申したら、
      ぎょうしょへの届け出は、思いとどまってくれるか……?

  長兵衛:おや ――
      なにやら 風向きが 変わりましたね。
      
      ではやはり柳田様が お持ちに ――

  格之進:違う!! そうではない!!
      
      そうではないが……、
      
      拙者が その金を ようてることで、
      そのほうぎょうしょへの届け出を やめると言うのであれば、
      拙者が 50両 用意しよう。

  長兵衛:はあ、さようで ございますか……。
      
      ええ もう、手前どもと しましては、
      50両が もどってさえすれば それで結構けっこうで ございますんでね。
      なにも わざわざ ぎょうしょの手を わずらわせることも ございません。

  格之進:……あい分かった。
      では、50両は 拙者が用意しよう。
      
      だが、今すぐというのは無理だ。
      明朝みょうちょう またこちらへ 取りに参られよ。

  長兵衛:明朝みょうちょう ――
      
      ええ、しょうしました。
      では、また 明日あすの朝 ということで。
      それでは 失礼をいたします。

  格之進:待て。

  長兵衛:まだ何か?

  格之進:もう一度 言うがな、その50両、
      かみほとけちかって、
      拙者は あずかり知らぬことだ。
      拙者は その金を ってなど おらん。
      
      これだけは きもめいじておかれよ。

  長兵衛:(苦笑)
      さようでございますか。
      
      ともかく 明朝みょうちょう また参りますので。
      それでは。(去る)


      
      

  格之進:……。
      
      やはり、わしは あの家に 出入りすべきではなかった……。

 


 

   語り:部屋に戻った 格之進は、
      すずりばこを 取り出し、
      手紙を 1通 したためた。


      
      

  格之進:きぬ。

   きぬ:はい、お父上。

  格之進:そなた、久しく牛込うしごめ叔母御おばごのところへ 行っておらんだろう。
      叔母御おばごてて 手紙を 書いたでな、届けて来ては くれまいか。
      そなたが顔を見せれば、叔母御おばごも 喜ぶであろう。

   きぬ:はい。お届けいたします。

  格之進:うむ。
      
      そうしたらな、久しぶりで 積もる話も あろう。
      今晩は、泊めていただけ。
      
      明日あすもな、はように帰って来る必要はない。
      ゆっくりと過ごして、夕方にでも 帰って来ればよい。

   きぬ:はい。しょういたしました。
      
       ―― ですが お父上。
      
      
      わたくしが 出ましたあと ――
      
      おはらを おしになることだけは、
      おとどまりくださいませ。

  格之進: ――
      
      (ごまかすように)
      は ―― ははは、何を言うのだ。
      わしが、腹を切ると 申すか。
      馬鹿を申せ、なにゆえ父が 腹など 切らねばならん。

   きぬ:わずか ふたばかりの長屋。
      よろずの 番頭様との 会話、
      聞く気が なくとも 聞こえてまいります。
      
      お父上は、盗人ぬすびとと 疑われたを 恥とし、おはらして
      武士の あかき おこころしめさんと
      思召おぼしめしで ございましょうが、
      相手は しょせん 町人。
      「燕雀えんじゃく いずくんぞ 鴻鵠こうこくこころざしを 知らんや」。
      武士の心など、かいするはずも ございません。

  格之進:きぬ……。

   きぬ:お父上が 切腹なされば、
       ほれ見たことか、柳田は 50両を盗んで、
       それが けんしたから 腹を切ったのだと
      言われるのが 落ちでございます。
      
      それでは……!
      それでは、犬死にでございます……!

  格之進:……。
      
      小さいうちから さとであったが、
      今も 変わらぬな……。
      
      父の嘘、すぐに 見破られてしもうた。

   きぬ:お父上は 正直なかた
      嘘を おきに なるのが
      下手でいらっしゃるだけでございます。

  格之進:(力なく)
      ははは……。
      やりつけぬ事を するものではないな……。

   きぬ:お父上。
      お父上が おっしゃるのであれば、
      わたくしは 牛込うしごめにでも どこにでも 参ります。
      
      ですが、どうか、
      おはらを おしになることだけは、
      おやめくださいまし。

  格之進:……。
      
      しかしな、きぬ……。
      わしは、他に どうしていか 分からぬ……。
      
      このままゆけば、奉行ぶぎょうの お調べは けられんこと。
      
      わしは 決して 盗んではおらん。
      天地神明てんちしんめいちかって 身に覚えのないこと。
      
      だが相手は 町でも ゆびりの 大店おおだな
      尾羽おは らした 浪人者ろうにんものと、
      この辺り きっての ものちと、
      ふたりだけの場所で 金が 紛失ふんしつしたとなれば、
      わしのほうに 疑いの目が 向くは 必定ひつじょう
      
      もちろん 調べが進めば、すえに 至っては
      ぎぬであったと わかるであろうが、
      ひとたび 受けためいは 簡単に ぬぐえるものではない。
      さすれば せんの ご主君しゅくんの 顔に 泥を 塗ることにもなり、
      柳田の めいにも 傷がつく。
      
      さようなじょくは、武士として 耐えがたいことだ……!

   きぬ:……。
      
      お父上、お願いしたいことが ございます。

  格之進:なんだ。


   きぬ:きぬを ――――
      
      
      きぬを、えんしてくださいませ。


  格之進:なに……!
      親子のえんを 切れと申すか……!?
      
      ……。
      
      ……さもあろう。
      
      武士の娘として 生まれた そなただ。
      ぬすめいを 着せられた者を、
      父などと 呼びたくはない ということか……。

   きぬ:……。

  格之進:……あい分かった。
      
      ふがいない父で、すまなかった……。
      
      ……では、今を もって、
      そなたを えんする。

   きぬ:ありがとうございます……。
      
      これで、もう……、
      
      わたくしは、柳田の娘では ありませんね……?

  格之進:……ああ。
      
      親でもなければ、
      
      ……娘でもない。

   きぬ:それでは、わたくしを……、
      
      吉原よしわらとやらへ、お売りくださいまし。

  格之進:なんだと!!

   きぬ:わたくしと お父上とは、
      もう、赤の他人で ございますれば、
      わたくしが 吉原よしわらに 身を 沈めたとて、
      柳田のめいに 傷は つきませぬ。
      
      どうか、わたくしを売った そのお金を、
      よろずに くれて おやりなさいまし。

  格之進:馬鹿を申せ!
      そのようなこと、できるわけが無い!

   きぬ:なさらなければ なりませぬ!!
      
      柳田格之進が、
      たかが娘の ―― 赤の他人の娘の 身を案じて
      めいけがれるままに なさるなど
      あっては なりませぬ!
      
      お願いでございます!
      
      今は、わたくしを売った お金を よろずに渡し、
      どうか、めいを お守りくださいまし……!

  格之進:きぬ……!

   きぬ:なくなったという 50両、盗まぬものならば
      すえには きっと出てまいりましょう。
      
      そうして 身の潔白けっぱくが 立ったあかつきには ――
      よろず 善右衛門ぜん え もん、番頭 長兵衛、
      りょうめいの 首を お打ちになり、
      お父上と、……わたくしの、
      無念を お晴らしくださいませ……!!


  格之進:……うた子に あさを 教えられるの たとえだ……。
      
      きぬ……、そなたの 心根こころねが、まことの武士じゃ。
      
      
      ……。
      
      
      あいわかった……。
      
      
      
      きぬ、許してくれ……!


      
       

 


 

   語り:近くに住む やくざ者から 紹介された げん仲介ちゅうかいで、
      きぬは 吉原よしわらに 売り込まれた。
      
      その りょうたるや、
      明日あすからでも、入山形いりやまがたふたぼし花魁おいらんとして
      店に出しても 恥ずかしくなかろう というほどの 美しさ。
      
      またそとだけでなく、武家ぶけむすめだけあって、品が良く、
      女ひと通りの 手習いと教養も 身についている。
      
      すぐに話は まとまって、きぬは、
      「半蔵松はんぞうまつ」という おおまがきに 売られていった。 *大籬(おおまがき)=吉原で最も格式高い遊女屋。
      
      
      格之進の手元には、仲介料を差し引いて、
      50両と少しの 金が残った。
      
      
      長屋に戻った 格之進は、
      その金を ひざの前に置いて 正座をし、
      一晩ひとばんじゅう、涙を流して 過ごした。
      
      
      
       ―― やがて、 が明けた。

 


 

  長兵衛:(格之進の長屋へ来た)
      おはようございます。
      ごめんくださいまし。
      よろずの番頭、長兵衛でございます。

  格之進:そなたか。

  長兵衛:ええ、どうも おはようございます。
      おおせのとおり、50両、ちょうだいに上がりました。

  格之進:(金包みを差し出して)
      ここにある。
      あらためるがよい。

  長兵衛:お、これはどうも。
      
      ふむふむ……。
      はい、たしかに50両 ございますね。
      どうも ありがとう存じます。
      
      いやもう、この50両さえ戻ってくれば、
      ぎょうしょへ 駆け込む必要も ございませんので、
      どうぞ ご安心を。
      
      では、わたくしは これで失礼を ――

  格之進:待て。

  長兵衛:何か?

  格之進:その金は、拙者が ほかから ごうしたものだ。
      拙者は、決して 50両を 盗んでなど おらん。

  長兵衛:(薄く笑って)
      ええもう、その事に ついては、
      手前どもも、もう何も 申しません。
      手前どもと いたしましては、
      50両さえ 戻ってくれば それで うございますので。
      では、わたくしは これで失礼を ――

  格之進:待て。

  長兵衛:(苦笑)
      まだ 何かございますか?

  格之進:拙者は 盗んではおらん。
      盗まぬものなら、いつか必ず
      どこかから 出てまいろう。
      
      そうなったおり、そのほう 何とする?

  長兵衛:はあ ―― 、もし50両が 他から 出てきた場合ですか?
      
      (余裕の表情)
      まぁ、そんなことは ございますまいが……、そうですねえ……。
      もし万が一、そのようなことが ありましたら、
      わたくしは 柳田様に 、
      あらぬ疑いを おかけしたという事に なりますので、
      そのお詫びに、柳田様の お望みになる物、
      なんでも 差し出しましょう。

  格之進: ――
      
      まことか。

  長兵衛:ええ。
      
      もし、そのような事があったらの 話でございますがね。

  格之進:では、50両が 他から 出てまいった その時には、
      拙者は そのほう ――――
      
      首を 所望しょもうするぞ。

  長兵衛:(一瞬ぎょっと目を見開くが)
      (やはりまだ余裕)
      ほう、これは また……。
      
      ええ、しょういたしました。
      こんな 汚い首でよろしければ、
      どうぞ 差し上げましょう。

  格之進:間違いないな。

  長兵衛:ええ、結構けっこうですとも。
      
      ああ、わたくしの 首ひとつじゃ さびしゅう ございましょうから、
      手前どもの あるじの首も つけて、ふたつ 差し上げましょう。

  格之進:申したな。
      
      その言葉、忘れるでないぞ。

  長兵衛:ええ、忘れませんとも。
      では、もう よろしゅうございますか?
      それとも まだ何かございますか?

  格之進:それだけ聞けば、もう何も言うことは無い。

  長兵衛:さようでございますか。
      それでは、失礼をいたします。
      
      ああ、お嬢様にも よろしく お伝えください。
      では。(去る)

  格之進:……。

 


 

  長兵衛:ふん、やっぱり あいつだった。
      さむらいったって しょせんは 貧乏浪人、
      ロクなもんじゃ なかったな。
      おとなしく 昨日きのうのうちに 払っとけばいいものを、
      一晩ひとばん 考えたところで 言い逃れなんて できるわけ ねえのに。
      おおかた 国元くにもとでも、おかみの金に 手ぇ付けたか 何かして、追い出されたんだろ。
      あんな父親を持って、お嬢さんも 気の毒に……。
      たまに長屋の近くで 見かけるけど、れいな人だよなぁ……。
      あんな ぬす親父おやじなんかとは えんを切って、
      ウチの店にでも 来ればいいのに……。
      
      そういや、今朝けさは お嬢さん、いる気配が なかったなぁ……。
      
      早くから 働きにでも 出てんのかな。
      おかわいそうに……。

 


 

  長兵衛:旦那様!旦那様!

 善右衛門:ん? 番頭さん。
      どうしたんだい?

  長兵衛:旦那様、先日なくなった50両、
      出てまいりました!

 善右衛門:なに、出てきた?
      はっはっは、そうかいそうかい。
      だから言ったろ?そのうち出てくるって。
      
      いや よかったよかった。
      やっぱり はなれに あったろ?

  長兵衛:いえ、そうじゃございません。

 善右衛門:はなれじゃない?
      じゃ、どこに あったんだい?

  長兵衛:それがですね。
      
      やはり、柳田様が お持ちでした。

 善右衛門: ――
      
      なんだって……!?

  長兵衛:いや、わたくし、やはり どうしても 気になりましたんでね、
      昨日きのう、柳田様のところに うかがったんですよ。

 善右衛門:な……!!
      柳田様のお宅に、行った……!?

  長兵衛:(得意げに)
      ええ。
      
      それで柳田様に、50両を お持ちでないか おたずねしましたら、
      あくまで 知らないと おっしゃるもんですからね、
      ではぎょうしょへ 届け出ますと 申し上げたんで ございますよ。
      そうしましたら 急に、金は 翌日よくじつまでにようてるから
      ぎょうしょへ 届けるのは やめろなんて 言い出しましてね。
      
      で、今朝けさ 行ってまいりましたら ――
      (金を取り出して)
      ほら、50両、お出しになりましたよ。
      
      旦那様、どうか 目を お覚ましになって、
      わたくしの 申し上げます とおり、
      もう あんな浪人者ろうにんものとの お付き合いは、
      お控えくださいまし。
      よろしゅう ございますね?
      
      聞いてらっしゃいますか?旦那様。

 善右衛門:(怒りに身を震わせている)……。
      
      (怒り爆発)
      馬鹿ばかもの!!


  長兵衛:(主の 見たこともない怒り具合に驚愕)
      だ……、旦那様……!?

 善右衛門:お前という奴は、なんてことを……!
      あれほど言ったろ……!50両のことは もう いいと……!
      
      柳田様は、金を盗むような おかたじゃないんだ……!
      あのかたは、わずか1もんの お金でも、
      わたしが 「もらってください」と言って 差し出したって、
      受け取るような おかたじゃないんだ……!
      
      それにな、そんな おかたが、
      仮に、もし仮に、
      自ら お取りに なったんだとしたら、
      それは、もう、よっぽどの ことだ……!
      ならば、黙って 差し上げておけば いいじゃないか……!
      どうしてそんな 余計なことをしたんだ……!
      
      こうしちゃ いられない。
      長兵衛! ついて来なさい!

  長兵衛:え……、あの、旦那様、どちらへ……?

 善右衛門:柳田様の所だ!
      よく お詫び申し上げて、
      この お金を お返しするんだ!
      いいから 来い!

 


 

   語り:善右衛門と 長兵衛が 格之進の長屋へ 来てみると、
      おもての扉は ピタッと閉まっており、
      呼んでも 戸を叩いても 返事が無かった。
      
      事情を話して 家主いえぬしと共に 中へ 入ってみると、
      手紙が2通、づくえの上に 置かれていた。
      
      1通は 家主いえぬしてたもので、
      
      「まことに 勝手ながら、とうを引き払うものなり。
       宿賃しゅくちん とどこおりの ところは、ざいどう一切いっさいをもって
       お支払い つかまつる ものなり」
      
      とあった。
      
      もう1通は、よろず 善右衛門ぜん え もんてたものだった。


      

 善右衛門:(手紙の文面を読む)
      『ゆえあって、てんもうそうろう
       たまわりし おん 一切いっさい、忘るまじくそうろう
       柳田格之進』 ――
      
      
      遅かった……。
      
      なんということだ……。
      
      わたしは、大事な大事な、生涯の友を、
      たかだか 50両ばかりの金で…………!
      
      いや、まだ そう遠くへは 行ってらっしゃらない かもしれない。
      
      長兵衛!

  長兵衛:は、はい!

 善右衛門:柳田様を さがすんだ!
      
      町の者にも たずねて まわって、
      柳田様の 行方ゆくえを 追うんだ!
      いいね!

  長兵衛:は、はい……!

 善右衛門:わたしは 店の者にも言って、手分けして さがさせる!
      なんとしても 柳田様を 見つけるんだ!

 


 

   語り:しかしその日、格之進の行方ゆくえは、
      とうとう 分からなかった。
      
      その日から 毎日、善右衛門は 店の者 幾人いくにんかに命じ、
      また みずからも 江戸じゅうを さがしてまわったが、
      格之進の行方ゆくえは、ようとして 知れないのだった。

 


 

   語り:やがて秋が過ぎ、木枯こがらしの吹く 寒い冬となった。
      
      師走大晦日しわすおおみそかが迫った 暮れの28日。
      よろずは 年末の煤払すすはらいで、
      ぞうや女中をはじめ 店の者が
      手に手に ホウキやハタキを持って、
      一生懸命に 掃除をしていた。
      
      

   定吉:だんな様!だんな様!

 善右衛門:おや定吉さだきち、ごくろうさん。
      どうしたんだい?

   定吉:(手に持った物を 差し出しながら)
      あの、はなれを 掃除してましたら、
      こんなものが 見つかりましたので。

 善右衛門:(差し出された物を 手に取って見る)
      ん ――
      
      (金包みだ)
       ――
      
      これは、50両の 金包かねづつみじゃないか!
      
      定吉さだきち! これ、はなれの、どこに あったんだい!?

   定吉:はい。がくに ハタキをかけてたら、
      落っこちてまいりました。

 善右衛門:がく……?
      
      
      そうだ、思い出した……!
      
      わたしはあの日、の途中で はばかりヽヽヽヽに 立った。 *はばかり=トイレ。
      
      そのとき、てん通用金つうようきん
      そんなじょうな所へ 持ってくのは 気がとがめたから、
      戸のわきがくの裏に ひょいと置いて……、
      そのまま 忘れて、また に夢中になって……!
      
      
      (長兵衛を呼ぶ)
      長兵衛!!

  長兵衛:だ、旦那様、どうか なさいましたか?

 善右衛門:50両 ―― 、出てきたぞ。

  長兵衛:(ちょっと忘れかけてる)
      は? 50両……?

 善右衛門:十五じゅうごよるに なくなった 50両、出てきたんだよ!

  長兵衛: ―― ど、どういうことですか……?

 善右衛門:わたしが はばかりに立った時に がくの裏に置いて、忘れてたんだ。
      
      (金子を見せて)
      ほら! 定吉さだきちはなれを掃除してて 見つけたんだ!
      
      柳田様が おりに なったんじゃ なかったんだよ!!

  長兵衛:これは……、たしかに 水戸みと様から いただいた金包かねづつみ……!
      では、本当に ――

 善右衛門:だから言ったじゃないか、
      柳田様は 金を盗むような おかたじゃないと。
      
      長兵衛、お前さんこそ、目が覚めたかい。

  長兵衛:(呆然)
      柳田様では ―― なかった ――
      
      それを俺は、アタマから あの人が 犯人だと 決めつけて ――
      
      
      (猛省)
      (善右衛門の前に手をついて がっくりと頭を下げて)
      旦那様……、わたくしが……、わたくしが 間違っておりました……。
      今になって、ようやく、目が覚めました……。
      申し訳……ございませんッ……!

 善右衛門:(ため息)

  長兵衛:(格之進が犯人でないとすると 奇妙な事がある)
      しかし……、事実、柳田様は、50両を 手前に お渡しになった……。
      あの金は、一体どうやって ご用意なさったんだろう……!?

 善右衛門:そこだよ。 しかも 一晩ひとばんでだ。
      たった一晩ひとばんで50両なんて、そうそう作れるもんじゃない。
      ましてや 柳田様のような 身の上なら 尚更なおさらだ。
      
      よほどの苦労をなさって、ごごうされたんだろう……。

  長兵衛:(猛省。後悔)
      ああ……! 俺は とんでもないことを……!

 善右衛門:とにかく。
      柳田様から 受け取った50両、
      そのままに しておくわけには いかない。
      なんとしても お返ししなければ。
      
      さ、掃除なんてもういい。
      柳田様を おさがしするんだ!

  長兵衛:(何かを思い出したように)
      ああッ!! だ、旦那様!

 善右衛門:なんだい、急に 大きな声を出して。

  長兵衛:あ……、あのッ……、その……、
      
      柳田様から 50両を いただいたときに、柳田様が
      「自分は50両は盗んでおらん。
       盗まぬものなら いつかほかから 出てくるだろう。
       そうなったら そのほう 何とする」と おっしゃいまして……。
      
      わたくし、そんなこと あるはずが無いと 思いましたんで、その……、
      「もしそうなったら、柳田様のお望みになる物、
       なんでも差し上げます」と、言ってしまいまして……。

 善右衛門:馬鹿だね ほんとに。失礼なことばかり言って……。
      
      差し上げましょう 差し上げましょう。
      柳田様が お望みになるなら、
      わたしが 何だって 喜んで 用意しますよ。
      
      で? 柳田様は 何か お望みになったのかい?

  長兵衛:それが……、
      
      わたくしの首を ご所望しょもうだと……。

 善右衛門:(ため息)
      さも ありなんだ。
      お前さんは、それだけ 武士の誇りを 傷つける行いを したってことだ。
      
      差し上げなさい 差し上げなさい。
      そんな首が ついてるから 余計なことを言うんだ。
      差し上げてしまいなさい。

  長兵衛:ええ、わたくしの首を 差し上げるのは、よろしいんです……。
      ですが…、あの……、その時にですね、わたくし、
      「手前の首ひとつじゃ おさびしいでしょうから、
       手前どもの あるじの首も 一緒に 差し上げます」と……

 善右衛門:どうして ひとの首を勝手に……!
      
      まあいいよ。番頭の不始ふしまつあるじ不始ふしまつだ。
      こんな首で 柳田様の お気が済むか 分からないけど、
      それで 少しでも 溜飲りゅういんを 下げていただけるなら、
      この首、喜んで 差し出そうじゃないか。
      
      とにも かくにも、
      まずは 柳田様を 見つけて50両を お返しして、
      よく お詫びを 申し上げなければ。
      
      さ、行くよ。

  長兵衛:はい。

 善右衛門:(店の奉公人たちに)
      店のみんなもね、今日はもう 掃除は いいから、
      手分けして 柳田様を さがしておくれ。いいね?

 


 

   語り:そうして 店の者 一同、また格之進を さがしてまわったが、
      やはり、その行方ゆくえを 知ることは できなかった。

 


 

   語り:やがて じょかねとともに その年は暮れ、
      一陽来復いちようらいふく新玉あらたま新年はるを迎えた。
      
      正月2日。
      江戸のしょうは、あるじに代わって 番頭が ねんまわりに あるく。
      よろずでも 番頭の長兵衛が、ぞう定吉さだきちともに連れ、
      方々ほうぼうの 得意先へ 新年しんねん挨拶あいさつに まわっていた。
      
      朝から どんよりとしていた 江戸の町には、
      いつしか 白いものが ハラハラと 舞い落ち、
      ねんまわりを 終えた 長兵衛と定吉が しまどおしに かかる頃には、
      真っ白な綿帽わたぼうあたりを 包んでいた。
      
      長兵衛が どおしの 坂の上から ひょいと 下を見ると、
      あんぽつ・・・・駕籠かごが ピタッと停まった。
      
      駕籠かごかきが スッと 戸を上げると、
      中から ひとりのさむらいが、下駄げたばきで 雪の上に降り立った。
      
      渋蛇目しぶじゃのめの 傘を差し、どおしの坂を 自らのあしで、 *しぶじゃのめ…渋を塗ったジャノメ(傘)。
      そのさむらいは ゆっくりと登って来る。
      
      

   定吉:番頭さん見て見て!
      おさむらいさんが歩いてくるよ!
      
      でも、どうして駕籠かごを おりちゃったんだろ?
      雪も降ってるし、駕籠かごに のったまま 上まで行けば 楽なのにね。

  長兵衛:あれは、駕籠屋かごやへの 気遣いだ。
      乗ってるほうは楽だが、それを担いで
      この坂を登るのは 大変だからな。
      ふうん、なかなか できたさむらいじゃないか。

   定吉:やさしい人なんだね!
      お身なりも立派だし、かっこいいなぁ……。
      
      

   語り:一歩一歩 確かめるように、
      ゆっくりと 坂を登って来る さむらい
      
      宗十郎そうじゅうろうきんかぶっているため 顔は よく見えないが、
      煤竹すすだけしゃ長合なががっ羽織はおり、
      つかぶくろを打った両刀りょうとうばさんだ姿は、
      そのさむらいが 並々ならぬ 身分にあることを 物語っていた。
      
      坂をくだよろずのふたりと 坂を登ってくる さむらい
      
      双方が すれちがわんとした その時、さむらいが ふと足を止めた。
      つられるように 長兵衛も 立ち止まった。
      
      さむらいと長兵衛の目が、かちっと合った。
      
      

  格之進:あいや。
      もしや 人違いであらば お詫びをいたすが ――
      
      殿でんは、浅草あさくさ 馬道うまみちよろず 善右衛門ぜん え もん殿どの御支ごしはい
      長兵衛殿どのでは ござらぬか。

  長兵衛:え……?
      
      さ……、さようでございますが……。

  格之進:きんを失礼する。(頭巾をとる)
      
      いかがでござる。
      この顔を、お見忘れか。

  長兵衛:(驚愕) ――
      
      や……、
      
      柳田……様……!!

  格之進:覚えておいでか。
      
      さよう。柳田格之進だ。

   定吉:あー! やなぎだ様だー!
      やなぎだ様、みつけたー!

  長兵衛:こ、こら! 定吉さだきち

  格之進:おお、そなたは いつぞやのぞうさんではないか。
      こんな雪の中、使いのともか。えらいのぅ。

   定吉:はい!

  長兵衛:定吉さだきち。わたしは 柳田様と 少し話があるから、
      お前は 先に 店へ帰りなさい。

   定吉:え、でも……

  長兵衛:いいから。
      もうすぐ暗くなる。その前に帰るんだ。
      ほら、傘、持っていきなさい。

   定吉:はーい。
      では やなぎだ様、しつれい いたします!

  格之進:うむ。気を付けてな。

   定吉:はーい!(去る)


      
      

  格之進:さ、長兵衛殿。傘を半分 お貸しいたそう。入られよ。

  長兵衛:いえッ! 滅相めっそうも ございません!
      柳田様の おし物に 雪が かかってしまいます!

  格之進:かまわぬ。殿でん風邪かぜをひいても いかぬ。
      さ、入られよ。

  長兵衛:あ、ありがとう存じます……。
      (真実を伝え 詫びねば という思い)
      (しかし首を斬られるという恐怖も)
      (葛藤。緊張。あぶら汗)

  格之進:お久しゅうござるの ――
      正月早々、こんな所で殿でんに会おうとは、
      思いもよらなんだ ――
      
      どうじゃ? お変わり ござらぬかな?

  長兵衛:は、はい。おかげ様で……。
      
      あ、あの、柳田様も、その、
      たいそうな ご出世の ご様子で……。

  格之進:いやなに、しゅへの さんかなったのだ。
      
      お恥ずかしい話であるが、それがしは
      ちと 人間が 固すぎたようでな、
      それを煙たがって ざんした者が おったそうで、
      それで 浪々ろうろうの身と なっておったのだ。

  長兵衛:なんと……、さようでございましたか……。

  格之進:まあ、調べが進んで それがしの あかしが 立ってな。
      お陰様で 殿の おおぼえも 以前より めでたくてのう、
      今は 江戸留守居えどるすいやく拝命はいめいしておる。

  長兵衛:そ、それは、このたびの ごさん、おめでとう存じます。

  格之進:浪々ろうろうおりは、よろずかたに ずいぶんと 世話になった。
      挨拶あいさつうかがわねばと 思ってはおるが、
      まぬ事があって
      いま無沙汰ぶさたを しておる。
      
      善右衛門ぜん え もん殿どのはじめ、ごちゅうの者は、
      健勝けんしょうに 過ごされておるか?

  長兵衛:はい。お陰様で、みな 達者に 暮らしております。

  格之進:さようか。それは何よりだ。
      いつの日か 挨拶あいさつに 出向くことも あろう。
      
      いや、お忙しいところを 呼び止めて 失礼いたした。
      では、めん(去りかける)

  長兵衛:お待ちください!

  格之進:何でござろう。

  長兵衛:あのッ……、柳田様ッ……!
      
      もッ……
      
      申し訳ございませんッ!!(土下座)

  格之進:これこれ、そんな 雪の上に 手をつくものではない。
      
      いかが なされた?
      さ、お立ちなされ。

  長兵衛:いえッ! 頭を 上げるわけには まいりません!
      
      わたくし、柳田様に、
      申し上げねば ならない事が ございますッ!

  格之進:……何でござるかな。

  長兵衛:月見のうたげおり紛失ふんしつしました50両、
      
      て……、手前どものほうより、
      
      
      出ましてございますッ!

  格之進:なに……!

  長兵衛:手前どものあるじが、はなれの がくの裏に 置いて、それを忘れ……、
      先日の 煤払すすはらいのおりに、見つかったのでございます!
      
      それを、わたくしは 柳田様が おりになったとばかり……!
      
      とんでもないれいを いたしました!
      
      申し訳……ございませんッ……!!

  格之進:そうか……!
      50両……、出てまいったか……!
      
      
       ―― のう長兵衛殿。
      
      しがない 貧乏浪人であった それがしが、
      そのほうに渡した 50両、
      いかようにして めんしたと思う?

  長兵衛:それが……、それが 手前どもにも、
      不思議で 仕方ございませんでした……。
      
      一晩ひとばん で50両など……、一体どのように……?


  格之進:よく聞け。
      
      あの金はな ―― 、娘の きぬが、
      吉原よしわらに 身を沈めて、こしらえてくれた金だ。


  長兵衛: ―― !!
      
      あ ――
      
      あの お嬢様が ―― !!

  格之進:実の娘を 女郎じょろうにして 金を作るなど、
      ちく所業しょぎょうと 思うであろう。
      
      だがな、きぬは まこと 武士の娘だ。
      
      自分を売って めいを守れと。
      そのために、親子のえんを 切れと。
      さすれば 娘が女郎じょろうになったとて、めいに 傷はつかぬと……!
      
      そう言って、吉原よしわらに 身を沈めてくれたのだ……!

  長兵衛:ああ……!
      
      わたくしは……!
      
      わたくしは、なんということを……!!

  格之進:のちに 国元くにもとから さんの声が かり、
      その度金たくきん身請みうけを したが……、
      
      武家ぶけむすめとして 生まれ育ったきぬに、
      遊女ゆうじょの 暮らしは よほど つらいもの だったのであろう。
      
      それがしの元に 帰って来た きぬは、
      もはや かつての きぬではなかった……。
      
      ほおは やつれ、黒髪は白へとへんじ、
      笑うことも なく、物も ろくに食わず、
      毎日、部屋のすみに 座って 泣き暮らしておる……。
      
      かわいそうに……
      その後ろ姿は、まるで ろうのようだ……。

  長兵衛:(後悔に嗚咽する)
      ああ……!
      
      あああああ……!


  格之進:そのほう ――――
      
      それがしが 50両を渡したおり
      そのほうと 約束した事を、覚えておるか ――

  長兵衛: ――
      
      (観念。うなだれ、目を閉じ)
      はい……、
      
      覚えております……。

  格之進:あれはな、きぬとの 約束でも あるのだ。
      
      それがしの 潔白けっぱくあかしったあかつきには、
      よろずと そのほうの 首を打って、
      それがしと ―― 、きぬの 無念を 晴らしてくれとな……。

  長兵衛:さようでございましたか……。
      
      柳田様……、
      お嬢様にも……、
      もはや、お詫びの しようも ございません……。
      
      
      この首、いくつ差し上げても 足りるものでは ございますまいが……、
      どうぞ、お斬りになってくださいまし……。

  格之進:よい覚悟である。
      
      しかし かような往来おうらいで 斬ったのでは 騒ぎが大きくなる。
      
      明朝みょうちょう、娘きぬ 立ち合いのもと、
      よろずかたへ そのほうらの首を ちょうだいに参る。
      
      今宵こよいかって ――
      (自分の うなじあたりを触ってみせ)
      ここらあたりを よぅく洗っておけ。
      
      さ、……ね。
      
      
      (長兵衛が転がるように駆け去るのを見届け)
      
      
      きぬ……、我らの無念、晴らすときが まいったぞ……!
      
      

 


 

   語り:店に戻った 長兵衛は、
      格之進との 会談の内容を
      善右衛門に 話して聞かせた。

 


 

 善右衛門:そうか……。
      
       ―― 番頭さん。

  長兵衛:はい。

 善右衛門:頼みたい事が あるんだがね。

  長兵衛:は、はあ……、何で ございましょう……?

 善右衛門:ちょいと 待っとくれ。
      
      (なにやら荷物を持ってきて)
      よいしょ。
      
      この荷物をね、明日あした朝一あさイチ
      川越かわごえたま井屋いやさんまで
      持ってって ほしいんだ。

  長兵衛:は? いやしかし……

 善右衛門:久蔵きゅうぞうに 頼もうと 思ってたんだけどねぇ、
      あいつ あしくじいちゃったらしくて 行かれないんだ。
      大事な お得意様とくいさまだからね、
      あんまり下の者を わけにも いかない。
      悪いけど お前さん、代わりに行っとくれ。

  長兵衛:何言ってるんですか!
      だって明日あしたは……

 善右衛門:いいから!
      必ず お届けすると 約束したんだ。
      ほら、これが お手紙。
      これも忘れずに お渡ししておくれ。
      
      いいかい? 明日あしたは、空がしらむ前に うちを出なさい。
      これは あるじからの 言いつけだ。
      寝坊するんじゃないよ? わかったかい!頼んだよ!

 


 

   語り:翌朝。
      
      よろずの 店先に 1ちょう駕籠かごが停まった。
      
      中から まず 降り立ったのは、柳田格之進。
      そして、格之進に 手を 引かれるようにして
      ふらふらと駕籠かごから 降りたのは ――
      
      やつれた顔。
      うつろな目。
      おどろに乱した 白い髪。
      
      かつての面影おもかげは 消え失せ、
      さながら 幽女ゆうじょのごとき姿に なり果てた、
      娘の きぬであった。

 


 

  格之進:めん

 善右衛門:これは柳田様。
      (きぬを見て一瞬絶句)
      お嬢様も……。
      
      柳田様、お久しゅうございます……。

  格之進:なが無沙汰ぶさたあいすまぬことであった。
      浪々ろうろうおりは、ずいぶんと世話に なり申したな。

 善右衛門:とんでもございません。
      
      無事 ごさんかなわれたそうで。
      おめでとう存じます……。
      
      昨日さくじつ 長兵衛に お話しくださったさい
      すでに およんでおります……。

  格之進:さようか。ならば 話は早い。
      
      店先では 人目も あろう。
      はなれへ 案内してくれるか。

 善右衛門:はい。どうぞ お上がりくださいませ。

 


 

   語り:はなれの様子は、あの 月見のうたげの夜の ままであった。
      
      善右衛門と格之進が いくかこんだ ばんも、
      変わらず そのまま そこにあった。
      
      どちらから言うとも無く、
      ふたりは あの夜と 同じように、
      ばんはさんで 差し向いに 座った。
      きぬは 父の少し後ろに、
      力なく くずおれるようにして 座った。
      
      

  格之進:懐かしいの。
      そなたと ここで を打っておった日々が、
      もう、遠い昔の事のようだ……。

 善右衛門:わたくしもでございます……。
      
      あの夜 以来、もう、は打っておりません……。

  格之進:金は ―― 、この部屋に あったそうだの。

 善右衛門:お詫びの言葉も ございません。
      わたくしが かわやへ 立ちます際、
      がくの裏に 置いたのを 失念しておりまして……。
      
      (長兵衛を守るために嘘を言う)
      柳田様が お帰りになったあと
      50両が無いのに 気づいた わたくしは、
      すっかり取り乱しまして、番頭の長兵衛に、
      柳田様に おたずねに行けと 命じたのです。
      
      柳田様、わたくしが 行かせたのです。
      
      あの者は、わたくしに命じられるまま、
      そちらへ うかがったのです。
      悪いのは、わたくし ひとりでございます。
      
      この首ひとつでは 不足にも過ぎましょうが、どうか、成敗せいばいいただいて、
      わずかばかりでも お気持ちを おおさめくださいませ……!

  長兵衛:(離れに駆け込んでくる)
      旦那様!

 善右衛門:長兵衛!お前!何してるんだ!
      川越かわごえへ行けと 言ってあったじゃないか!

  長兵衛:こんな事ではないかと思って、
      そこで聞いておりました!
      
      (格之進に)
      柳田様!
      いまあるじが 申しましたことは、嘘でございます!
      まったくの でたらめでございます!
      旦那様は、50両のことはもういい、忘れろと おっしゃってたんです!
      それなのに わたくしは、余計な ちゅうしんを起こして、
      勝手に 柳田様のところへ 参ったのです!
      
      ……いいえ、……ちゅうしんなどと言うのも おこがましい……。
      みにく嫉妬心しっとしんでございます……。
      
      旦那様は、二言ふたことには 柳田様 柳田様と……。
      長年ながねん 奉公ほうこうしてきた わたくしの 言うことには お耳を貸さず、
      ご浪人の 柳田様と 親しくなさっているのを見て……、
      わたくしは……くやしかったのでございます……!
      
      柳田様!
      旦那様は、初めからずっと、
      柳田様は お金をるようなかたではないと、
      言い続けてらっしゃいました……!
      
      お願いでございます!どうか……!
      わたくしの首だけで、おゆるしくださいませ……!!

 善右衛門:柳田様!
      この者の おろかな行いは、
      わたくしへの ちゅうから 出たものでございます!
      奉公人ほうこうにん不始ふしまつは、あるじ不始ふしまつです!
      この者は まだ先のある 若者です!
      故郷くにには 老いた母がおり、
      この者だけが 頼りなのです!
      
      お願いでございます! どうか!
      どうか この者に 情けを おかけいただき、
      わたくしの首を 斬ってくださいませ!!

  長兵衛:いけません旦那様!
      そもそも柳田様が ご所望しょもうされたのは
      わたくしの首なのです!
      どうか、わたくしの首を……

  格之進:黙れ!!
      
      (ふたりの情に 胸打たれるものがある)
      (が、きぬの仇。斬らねばならぬ。葛藤)
      黙れ黙れ黙れ黙れ…………
      
      黙ってくれッ……!
      
      
      いまさら 何を申したところで、もう遅いッ…………!
      
      
      きぬは……!
      きぬはどうなる…………ッ!
      
      50両のために 吉原よしわらに 身を沈め……
      あのような姿に…………!
      
      そのほうらの首をもって むくいと せねば、
      きぬに顔向けが できるかッ……!
      
      
      よろず 善右衛門ぜん え もん、ならびに番頭 長兵衛。 そこへなおれッ!
      
      

 善右衛門:長兵衛、かくなる上は、覚悟を決めよう。
      わたしたちは、首を斬られても 仕方のない事を してしまったんだ。
      
      お前さんだけでも 助けてもらいたいと 思ったんだがね……、
      わたしの首じゃ 安すぎた。すまないね。

  長兵衛:(泣いてる)
      旦那様……!
      申し訳ありません……!
      わたくしのせいで…………

 善右衛門:あとはゆっくり あの世で聞くよ。
      
      
      (格之進に)
      柳田様、どうぞ、成敗せいばいくださいませ……。
      

   きぬ:お父上 ――
      
      

   語り:きぬの声は、あまりに かすかで、
      格之進の耳には 届かなかった。
      
      

  格之進:覚悟いたせ。
      
      

   語り:かちり、と鯉口こいぐちを鳴らし、
      格之進は ゆっくりと さやから 刀を抜いた。
      
      

   きぬ:お父上。
      
      

   語り:さらに ゆっくりとした動作で、
      格之進は 刀を 上段に構えた。
      
      

   きぬ:お父上!

  格之進:(刀を振り下ろす)
      ふんッ!!
      
      
      

   語り:あい一閃いっせん、格之進は 刀を 振り下ろした。
      
      飛沫しぶきとともに、善右衛門、長兵衛、
      りょうめいの首が 畳の上に ごろごろッと転がる
      
       ―――― かに思われた。
      
      
      しかし 2つの首は、いまだ そのあるじたちの どううえにあり、
      
      刀をさやに納め、
      「ふうっ」と息を ひとついた 格之進の 足元を見れば ――――
      
      
      まっぷたつになった ばんがあった。
      
      
      

 善右衛門:(生きているのが信じられない)
      や ―――― 、柳田様…………

  格之進:しゅじゅうじょうの当たりにし、柳田の手元は 狂うた。
      
      りょうめいの者。このばんに免じて、このたびは 差し許す。

  長兵衛:(息も声も震えている)
      や……柳田様…………

 善右衛門:あ ―― 、ありがとう……ぞんじます……。

  格之進:(きぬに)
      きぬ……。
      
      わしは……、そなたの無念、晴らしてやれなんだ……。
      すまぬ……。

   きぬ:いいえ、もう、よいのでございます……。
      
      よくぞ、おとどまりくださいました……。

  格之進:きぬ……。

   きぬ:わたくしも、りょうめいじょうに、打たれました……。
      
      商人あきんどなど、しょせん 町人と 思うておりましたが、
      よろず様は 長兵衛様のために、
      長兵衛様はよろず様のために、
      命を 投げ出さんと しておられました……。
      武士にも劣らぬ その心底しんていに 感じ入り、
      そのりょうめいの 命、惜しむ こころちとなりました。
      
      お父上、よくぞ、おとどまりくださいました。
      ありがとうございます……。
      

   語り:格之進は、きぬに向けて かすかに ほほんでみせると、
      善右衛門、長兵衛のほうに 向きなおった。
      

  格之進:(善右衛門に)
      よろず 善右衛門ぜん え もん

 善右衛門:はい……。

  格之進:こうばんを、使い物にならなく してしもうた。
      あいすまぬな。

 善右衛門:滅相めっそうも ございません…………。
      わたくしには、もう、
      ようしなで ございますれば……。

  格之進:さようか……。

 善右衛門:柳田様……。
      このたびの お情け、ありがとう存じます…………。

  格之進:よろず殿どの

 善右衛門:はい。

  格之進:(長兵衛を目で示し)
      奉公人ほうこうにんを 持たれたな。

 善右衛門:はい……!
      わたくしには、過ぎたる忠臣ちゅうしんでございます ――

  格之進:(長兵衛に)
      長兵衛殿。

  長兵衛:はい……!

  格之進:よろず殿どのは、よきあるじである。
      これからも、忠を 尽くされよ。

  長兵衛:は……はいッ!
      ありがとう存じますッ……!
      
      ……あッ、あの……!
      
      柳田様!

  格之進:なんだ。

  長兵衛:もし、おゆるし いただけるので ございましたら……、
      
      わたくしに……その……、
      
      お嬢様の お世話を、
      させていただけませんでしょうか……?

  格之進: ――――
      
      それがしと きぬは 親子のえんを 切っておる。
      それがしが ゆるすも ゆるさぬも ない。
      当人に 直接 いてみるが よろしかろう。

  長兵衛:は……はいッ!
      


      
      

  長兵衛:(きぬに)
      お嬢様……、お……おきぬさん……、
      このたびは、まことに、申し訳ございませんでした……!
      もう……、お詫びのしようも ございません……!
      わたくしのせいで、こんなことに……!
      
      なんの 罪滅つみほろぼしにも なりませんが、
      わたくしに、あなた様の、ご看病、お世話を、
      させていただけませんか……!

   きぬ:いいえ。
      
      あなた様は、大店おおだなを あずかる番頭殿ばんとうどの
      わたくしのような、みにくい、
      けがれた女に かかずらって いらっしゃっては、
      間体けんていが 悪うございましょう。

  長兵衛:何を おっしゃいます!
      あなた様は、みにくくもなければ、
      けがれても いらっしゃいません!
      
      それに、世間が どのように申しましても、
      わたくしは 気になど いたしません!
      
      お願いでございます!
      どうか、わたくしに、あなた様の お世話を させてくださいませ!

   きぬ:長兵衛様……。

  長兵衛:もし、あなた様が、以前のように お元気に なられまして、
      ……もう わたくしが ようみだと 思われましたら、
      その時は、もう来るなと おっしゃっていただいて かまいません。
      
      けれど、お元気になられるまでは、どうか……!

   きぬ:ごとくかた…。
      
      ……どうぞお好きに、なさってくださいまし。

  長兵衛: ――
      
      ありがとう……ございますッ……!!
      
      


 善右衛門:柳田様。

  格之進:なんでござろう。

 善右衛門:(金包みを取り出す)
      これを ――

  格之進:これは……?

 善右衛門:柳田様と お嬢様が、身を切られる思いを なさって、
      お作りになった 50両でございます……。
      
      ようやく……、ようやく お返しすることができます……。

  格之進:うむ。
      
      では、じゅう両だけ、受け取っておこう。

 善右衛門:……?
      なぜでございます……!?
      この10両は……!?

  格之進:また そなたと 打ちとうなった。
      
      その10両で、新しい ばんを買うてくだされ。
      
      

 


 

   語り:それから ――――
      
      格之進と 善右衛門は、以前よりも深く よしみを 結ぶようになった。
      
      長兵衛は きぬを 懸命けんめいに看病し、その甲斐かいあって、
      きぬは だんだんと 健康を 取り戻すようになっていった。
      
      そして、いつしか ふたりは 想い想われる仲になり、
      やがてふうとなった。
      
      よろず 善右衛門ぜん え もんは、このふたりをふうように 迎え入れ、
      長兵衛に 店を譲って、楽隠居らくいんきょの身となった。
      
      さらに 数年が 経つうちに、
      長兵衛と きぬは ふたりの男の子に 恵まれた。
      
      格之進、善右衛門、そして夫婦が 話し合い、ゆくゆくは、
      長男を 格之進が引き取って 柳田のめいを継がせ、
      次男には よろずの店を 継がせようと決めた。
      
      
      今でも よろずはなれでは、時折ときおり
      「ピシッ ―― 」「ピシッ ―― 」という、
      ばんに 石を置く音が 聞かれるのであった。


      
      

おわり


その他の台本                 


参考にした落語口演の演者さん(敬称略)


柳家さん喬
立川生志
古今亭志ん朝(3代目)
金原亭馬生(10代目)
三遊亭圓楽(5代目)
古今亭志ん生(5代目)
立川志の輔


何かありましたら下記まで。
kurobekio@yahoo.co.jp

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