声劇台本 based on 落語

浜野矩随はまののりゆき


 原 作:古典落語『浜野矩随』
 台本化:くらしあんしん


  上演時間:約70分


【書き起こし人 註】

古典落語をベースにしていますが、あくまでも"声劇台本"として作成しています。
なるべく声劇として演りやすいように、元の落語に様々なアレンジを加えている場合があります。

アドリブ・口調変更・性別転換 等々OKです。



ご利用に際してのお願い等

・上演を公開される際は、観覧無料の媒体のみで行うようお願いします。
 観覧自体が無料であればかまいません。いわゆる「投げ銭システム」に代表されるような、リスナーから
 配信者へ 金銭または換金可能なアイテムやポイントを贈与できるシステムの有無は問いません。
 ただし、ことさらリスナーに金銭やアイテム等の贈与を求めるような行為は おやめください。


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 録画の公開期間も問いません。

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<登場人物>

浜野はまの矩随のりゆき(セリフ数:129 )
 25歳くらい。
 腰元彫りの名人・「浜野矩康(はまの のりやす)」の息子。 父 矩康はすでに他界。
 本人も腰元彫りの職人だが、父とは違い、下手。
 怠惰なわけではなく、本人なりに真面目に一生懸命やっているのだが、なかなか腕が上がらない。
 優しい性格で、母親思い。
 一人称は「あっし」「手前(てまえ)」もしくは「俺」。



・母親(セリフ数:47)
 50歳代。
 矩随の母。 故・矩康の妻。
 世間の母親同様、一人息子の矩随をいたく愛している。
 泰然としており、何事にも動じず、落ち着いている。
 一人称は「あたし」。



若狭屋わかさや じん兵衛べえ(セリフ数:90)
 ?歳。まぁ矩随よりは年上の方がいいでしょう。
 道具屋「若狭屋」の店主。
 江戸っ子らしく義と情に厚く、生前の矩康に世話になった恩義から 損を顧みず 矩康の息子・矩随のサポートをしている。
 商人なので 普段は人当たりの良い話し方だが、気安い相手には時としてズバッと厳しく言うことも。
 特に酒が入ったりすると、江戸っ子の気性が頭をもたげ、ついつい言葉が過ぎるクセがある。
 一人称は基本的に「私」。「俺」になることもしばしば。



・定吉(セリフ数:15 )
 10歳前後。
 若狭屋に奉公している小僧さん。
 一人称は「オイラ」。



・語り(セリフ数:14 )
 ?歳。
 いわゆるナレーション。
 丁寧語で、聞き手に語り掛ける感じ。
 セリフ数を考慮して女性に振っていますが、男性がやっても全く問題ありません。





・男(セリフ数:6)
 ?歳。
 矩随の品物を求めて遠方からやって来た男。
 どこかの商店の番頭格らしい。
 出番は最終盤にほんの少しだけ。
 台本のうえでは関西弁を話していますが、演者さんの得意な訛りで演っていただくのも面白いかと。
 標準語で演っても さほど問題ありません。※標準語への対訳も併記してあります。
 ちなみに江戸落語の噺家さんは だいたい エセっぽい関西弁で演ってらっしゃいます。





<配役>

・浜野矩随/男:♂ ※マーカーあり台本 → こちら
・母親/定吉/語り:♀ ※マーカーあり台本 → こちら
・若狭屋甚兵衛:♂ ※マーカーあり台本 → こちら

 ※配役はあくまでも推奨ですので、自由に変えていただいて構いません。


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【ちょっと難しい言葉】※クリックすると開いたり閉じたりします(ブラウザによっては機能しません)
  • 腰元彫り(こしもとぼり)
    刀剣や煙草入れ等の付属品を彫ること。また その彫った金物。あるいは それを彫る職人。

  • 小柄(こづか)
    わきざしのさやの外側にさし添える小刀。またはその柄(え)。「こがら」と読んじゃうと全然ちがう意味に。

  • 根付(ねつけ/ねづけ)
    煙草入れなどの提げ物を腰の帯にさげて携帯するための留め具。

  • 転宅(てんたく)
    引っ越し。

  • メジ
    メジマグロ。

  • 一端(いっぱし)
    一人前。「いったん」と読んじゃうと全然ちがう意味に。

  • 若駒(わかごま)
    若い馬。

  • 了見(りょうけん)
    考え。気持ち。思案。

  • 手切れ(てぎれ)
    それまでの関係を断つこと。また そのために相手に渡す金銭。

  • 路銀(ろぎん)
    旅のための金銭。旅費。

  • たがね
    金属の加工に用いる のみ。漢字だと「鏨」。難しい。

  • 九寸五分(くすんごぶ)
    短刀。あいくち。

  • 不肖(ふしょう)
    (親や師に似ず)未熟なこと。おろかなこと。

  • 今生(こんじょう)
    この世。現世。

  • 水盃/水杯(みずさかずき)
    二度と会えないかも知れない別れの時などに、酒のかわりに水をついで、杯をやりとりすること。

  • 道を付ける(みちをつける)
    糸口を作る。





ここから本編




   語り:江戸時代。
      
      腰元こしもとりの名人で、はま 矩康のりやすという 高名こうめい彫刻ちょうこく おりました。   
      
      「腰元こしもとり」というのは、かたなつばづか、あるいは 煙草たばこれの つけなど、
      金物かなものほどこもののことでございます。
      
      
      矩康のりやする物は、いずれも まさに 名人の仕事。
      その出来でき 素晴らしさに れ込んで、
      方々ほうぼうどう具屋ぐやが 先を争って 求めたものですから、
      矩康のりやすったしなは いつも 飛ぶように売れました。
      
      そんな 名人の名を ほしいままにした はま矩康のりやすですが、
      49歳のとき、妻と一人息子を残して この世を去ってしまいます。
      
      
      矩康のりやすの一人息子、名を 矩随のりゆき
      
      彼もまた、父の後を 継ぐように、
      彫刻ちょうこくの道へ 進んだのですが――――


      
      

   矩随:(道具屋「若狭屋」の店先で 中に向かって)
      わか狭屋さやさん、おはようございます、矩随のりゆきでございます。
      今日も、った物を お持ちしましたので。

  若狭屋:おお、矩随のりゆきさん、おはよう。
      ま、お上がり お上がり。

   矩随:はい、失礼いたします。(上がる)

  若狭屋:で、今日は 何をってきたんだい?

   矩随:はい。つけ用に、イノシシをってきました。
      こちらです。

  若狭屋:お、見せとくれ見せとくれ。
      
      ん、どれどれ……
      
      (見てみるが、どうもイノシシには見えない)
      
      ……おい矩随のりゆきさん、これ、イノシシかい……?

   矩随:はい……、そのつもりで ったんですが……。
      
      イノシシに見えませんか……?

  若狭屋:ん~~、
      おまえさんが 「イノシシ」だと言って 見せてくれたから、
      これはイノシシだと 自分に 言い聞かせながら 見てみればまぁ……
      イノシシに 見えなくも ないような 気もするけど……
      
      そうでなきゃあ、豚にしか 見えないねえ……。

   矩随:そ、そうですか……。
      
      すみません……
      
      自分では イノシシをったつもりだったんですが……。


      

   語り:矩随のりゆきの腕前は、父とは違い、大変まずいものでした。
      
      決して 不真面目ふまじめだとか なまけ者だとかいうわけではなく、
      本人は 一生懸命 精進しょうじんしているのですが、
      どうにも ウデが上がりません。
      
      名人 矩康のりやすの 死後、道具屋の面々は みな
      あとぎである 矩随のりゆきに 期待していました。
      
      しかし その おまつな仕事に あいかし、
      贔屓ひいきの買い取り手は 次々に 去って行ったのでした。


      

   矩随:すみません、わか狭屋さやさん。
      また ざまな物を 持って来てしまって……。

  若狭屋:ん~、まあいいよ、今日も ごくろうさん。
      じゃ いつものとおり、いちで買い取ろう。
      (銭を渡して)
      はい、いち


      

   語り:しば神明前しんめいまえに 店を構える 道具屋、わか狭屋さや じん兵衛べえ
      
      今では このじん兵衛べえが 唯一、
      矩随のりゆきったしなの 買い取り手でした。
      矩随のりゆきが どんなにヘタな物を 持って来ても、
      必ず いちで 買い取ってくれるのです。
      
      いちという お金は、贅沢ぜいたくさえ しなければ、
      矩随のりゆきと母、親子2人が 10日は 暮らしていける額でした。


      

   矩随:わか狭屋さやさん、いつもありがとうございます。

  若狭屋:なあに、いいんだよ。
      おまえさんの おっつぁんには、
      私も 世話になったからねぇ。
      
      矩康のりやすさんが 贔屓ひいきにしてくださった おかげで、
      ウチは ずいぶん もうけさせてもらった。
      今 これだけの店を 構えられるのは、
      おまえさんの おっつぁんの おかげだからね、
      その 恩返しでもある。
      
      他のどう具屋ぐやれんちゅう薄情はくじょうなもんだと思うよ。
      矩康のりやすさんの 存命ぞんめいちゅうには、もうけたい 一心で、
      みつむらがるはちみたいに チヤホヤしてたってのに、
      亡くなったたん、寄り付きもしなく なっちまって。
      おまえさんと おっかさんが 裏長うらなが転宅てんたくして 苦労してるってのに、
      誰ひとり 見向きもしないときた。
      まったく 冷たいもんだよ。血のかよった江戸っ子とは 思えないねえ。

   矩随:いえ……でも それは、あっしが 下手なのが 悪いですから……

  若狭屋:ああ矩随のりゆきさん すまない。
      つい 余計なことを 言っちまった。
      ま、あんまり 気にしないでおくれ。
      
      とにかくまあ、どんな物でも、
      り上がったら ウチに持っておいで。
      ちゃんと いちで 買い取るから。

   矩随:はい、ありがとうございます。

  若狭屋:ときに、おっかさんは 元気でいらっしゃるかい?

   矩随:ええ、おかげ様で。
      ときどき 腰が 痛むようですが、
      それ以外は 大きなやまいも ありませんし、
      食欲も ありますんで。
      
      今日は いただいた お金で、久しぶりに うまい魚でも
      買って帰って あげようかと思います。

  若狭屋:ああ それはいい事だ。
      きっと お喜びになる。
      
      おまえさんは おっかさん思いの いい男だ。
      これからも 孝行こうこうしておやり。

   矩随:はい。
      
      では今日は、これで失礼します。

  若狭屋:うん。また何かったら、見せにおいで。
      
      それじゃ、おっかさんにも よろしく 伝えとくれ。

   矩随:はい。それでは。(去る)


      

  若狭屋:(あらためて矩随の彫った物を見て ため息)
      
      (奉公人の小僧を呼ぶ)
      定吉さだきち定吉さだきちや!

   定吉:はぁーい!
      
      (やって来る)
      
      だんな様、なにか ご用でしょうか?

  若狭屋:(矩随の彫った物を渡して)
      これ、また いつもの箱に しまっといてくれ。

   定吉:はい。
      
      あ、のりゆきさんの ものですね!
      今回のは 何かなぁ?
      
      あ、ブタだ!
      
      だんな様、これ、箱に しまっちゃうんですか?
      お店に 出さないんですか?

  若狭屋:そんなんじゃあ、売り物に ならないからね。

   定吉:はあ。
      
      そうかなぁ……上手なブタだと思うけどなぁ……。
      
      ねえ だんな様、こないだの河童かっぱダヌキよりは いいと思いませんか?

  若狭屋:河童かっぱダヌキ?

   定吉:(おもしろかった思い出。楽しそうに)
      あれ、だんな様 おぼえてませんか?
      半月はんつきほど前に のりゆきさんが 持って来たやつ。
      
      頭に お皿が のってるから カッパだと思って 見てたら、
      下のほう行くと、おなかが ポコンて 出っぱってて、
      太いシッポまで付いてて、タヌキになっちゃうの。
      あれ おっかしかったなぁ(笑)
      カッパだか タヌキだか 分かんないから、河童かっぱダヌキ(笑)

  若狭屋:ああ……そんなのもあったねぇ……

   定吉:あれ 何回 見ても 笑っちゃうんですよぉ(笑)
      だからオイラも カメちゃんも キュウちゃんも、
      おこられたりして つらいことがあったら あの河童かっぱダヌキを見るんです。
      そしたら もう おかしくて笑っちゃって、つらいのも 忘れちゃうんですよね。

  若狭屋:こらこら、人のって来た物を
      そんなふうに 使うもんじゃないよ。
      矩随のりゆきさんは なにも おまえたちを 笑わそうと思って
      持って来てるんじゃないんだ。
      
      さ、豚も 河童かっぱダヌキも もういいから。
      とにかく それ いつもの箱に しまって、仕事に戻っとくれ。

   定吉:はぁ~い。(去る)


      

  若狭屋:(ため息)小僧にまで 馬鹿にされてて どうすんだい……。
      
      矩随のりゆきさんもなぁ……人間は いいんだが……
      もう少し ウデが 上がらないもんかなぁ……。

 


 

   矩随:おっかさん、ただいま帰りました。

   母親:ああ矩随のりゆき、おかえり。

   矩随:わか狭屋さやさんに いち いただいたんで、
      帰りに さかなに 寄って来ました。
      メジを 切り身に してもらいましたんで、
      あとで 煮付けにでも して 食べましょう。

   母親:ありがたいねぇ……。
      わか狭屋さやさんには いつも お世話になって……。

   矩随:わか狭屋さやさんも、おっかさんに よろしくと おっしゃってました。

   母親:あのかたは ほんとに いいかただねえ。
      あたしたちが 今 こうして 暮らしていられるのは、
      あのかたの おかげだもの。

   矩随:ええ、本当に……。

   母親:あのかたは、死んだウチの人への 恩返しだなんて 言ってくださるけど、
      それにしたってねえ……。
      
      少しでも こっちから お返しできればと 思うんだけど、
      ウチも 食べていくので 精いっぱいで、なかなかね……。
      
      ウチの人の った物、
      1つでも 残ってれば よかったんだけどねぇ……。

   矩随:……。

   母親:こないだ、往来おうらいわか狭屋さやさんに ばったり会ってね。
      かれたんだよ。
      「矩康のりやすさんのった物、何でもいいんで、
      1つだけでも 何か 取っておいてらっしゃいませんか」って。
      
      今でも ウチの人の 品物しなものを欲しがる お客さんは 多いみたいでね。
      ときどき、何か 無いかって 催促さいそくされるんだって。
      
      残ってれば 喜んで 差し出したんだけど、
      1つ残らず 食べるものに 換えちゃったからねぇ……。
      
      そう お答えしたら、
      ずいぶん 残念そうな顔 してらっしゃったねぇ……。

   矩随:……。
      
      すみません……。
      
      俺に、おっつぁんのようなウデが あれば よかったんですけど……。

   母親:(気遣うように)
      ああ、ごめんよ矩随のりゆき。気にしないでおくれ。
      
      いくら親子と言ったって、何でも 同じようにというわけには いかないさ。
      おまえは おまえなりに、頑張ってやればいいんだよ。

   矩随:はあ……。
      
      でも、やっぱり俺には、
      職人の才能は 無いみたいですから……。

   母親:何を言ってるんだい。
      才能が無いなんて 決めつけるには、
      おまえは まだ若いじゃないか。
      
      おこたらずに 一生懸命 続けていれば、いつか、
      おっつぁんのように とは言わないまでも、
      いい物が れるようになる日が 来るんじゃないかねえ。
      
      おっかさんは、おまえに 才能が無いなんて、思っちゃいないよ。

   矩随:おっかさんが そう言ってくださるのは 嬉しいんですが……。
      ですが、それは 親のよくというものですよ。
      
      今日もわか狭屋さやさんに った物を お見せしたんですが……
      イノシシをったつもりが、豚にしか見えないと 言われてしまいました……。

   母親:そうかい……。
      
      まぁでも、名人だって、最初から 名人ってわけでもないさ。
      
      精進しょうじんして精進しょうじんして、それで 才能が 花開はなひらいて 名人になる。
      その花が、ある日 突然 パッと開くか、
      それとも ゆっくり開いていくかは 人それぞれ。
      
      ゆっくりでも いいじゃないか。
      才能が無いなんて あきらめないで、精進しょうじんおし。いいね?

   矩随:はい……
      
      精進しょうじんいたします……。

 


 

   語り:そうして矩随のりゆきは、来る日も 来る日も 一生懸命、
      彼なりに りょく精進しょうじんしたのですが、
      その腕前は なかなか上がりませんでした。
      
      いろいろな物をっては わか狭屋さやに 持って行くのですが、
      どれも不出来ふできな物ばかり。
      
      それでもわか狭屋さやは、そんな 売り物にならない物を 引き取り、
      必ず いちという お金を 矩随のりゆきに くれるのでした。
      
      
      そんな ある日――――

 


 

   矩随:(若狭屋の店先で)
      わか狭屋さやさん、おはようございます、矩随のりゆきです。
      った物を お持ちしました。

   定吉:(声を聞きつけて)
      あ、矩随のりゆきさんだ。
      今朝けさは 早いなあ。
      
      (主人の部屋の前へ行って)
      だんな様ー、のりゆきさんが 来てらっしゃいますよー。

  若狭屋:(前夜に深酒しすぎて二日酔い気味)
      んぁ……。今朝けさは ずいぶん早いねえ……。
      
      (頭痛)あいたたた……。
      いけない いけない、ゆうべ ちょいと 呑み過ぎちまった……。
      
      (まだ酒が残ってる感じ)
      ああ~……まだ ゆうべの酒が 残ってるな……。
      
      (定吉に)
      定吉や、矩随のりゆきさんね、ちょいと待ってもらっておくれ。

   定吉:はーい。

  若狭屋:それからね、水を1杯、持ってきておくれ。

   定吉:はーい。かしこまりましたー。

 


 

  若狭屋:いやぁ矩随のりゆきさん、待たせちゃって すまないね。
      ゆうべ 仲間と 深酒ふかざけしちゃってねえ。
      
      今日は また ずいぶんと早いじゃないか。

   矩随:はい。ゆうべから っていて、気付いたら 朝になってまして。
      さきほど り上がりましたんで、そのまま 持って来ました。

  若狭屋:ほう。
      
      夢中でって てっするとは、おまえさんも 一端いっぱしの職人らしい事を
      言うように なってきたじゃないか。 嬉しいねえ。
      
      で、何をってきたんだい?

   矩随:はい。づかに、若駒わかごまってきました。
      
      (差し出して)これです。

  若狭屋:ほう若駒わかごま。 馬かい。いいねえ。
      どれどれ、見せてもらいますよ。
      
      (しげしげと見る。一見いい出来に見えて感心しかける)
      ふーむ、なかなか上手く れてるじゃな――(なんか変だ)
      
      ん……?
      
      おい矩随のりゆきさん。

   矩随:はい。

  若狭屋:つかぬ事を たずねるがね。

   矩随:はい……。

  若狭屋:馬のあしってのは、何本なんぼんだい?

   矩随: ――
      
      4本だと思いますが……。

  若狭屋:この馬、あしが 3本しか無いじゃないか。

   矩随:えッ ――
      
      (あわてて自分も見る)
      あっ……!
      
      す、すみません!
      明け方 ちょっと ウトウトして、
      そんじてしまいました……!

  若狭屋:(プロの職人とは思えないミス、そしてまたその言い訳にたっぷり呆れる)
      
      (深い ため息)
      「明け方 ウトウトして そんじました」 ――
      
      矩随のりゆきさんよぉ、それが 職人の言うことかい。
      だい大人おとなぐさかい。え?

   矩随:す、すみません……。

  若狭屋:情けないねぇ……。
      
      矩康のりやすさんが 亡くなって もう2年だよ? 何やってんだい。
      
      
      この際だから、今日は ちょいと 言わせてもらうよ。
      
      矩随のりゆきさん。おまえさんは 何でもかんでも った物を ここへ 持って来る。
      私は毎回 ごくろうさんと言って いちというかねを おまえさんに渡す。
      
      これはな、なにも、うらにわかねのなるがあって
      そこから もぎ取って おまえさんに 渡してるわけじゃないんだ。
      いちってかねは、ウチにとっても 大事な お宝なんだ。
      それを 右から左へ、おまえさんに くれてやってるのは どうしてだと思う?
      おまえさん 考えたこと あんのかい?

   矩随:……。

  若狭屋:ひとつには、矩康のりやすさんへの 恩返しってのもある。
      
      また ひとつには、困ってる おまえさんと おっかさんを 助けたいってのもある。
      
      それから 俺の意地ってのもある。
      
      矩康のりやすさんが亡くなったあと 離れて行った連中な、
      俺が おまえさんたちの 世話してるの見て 馬鹿にしやがんだ。
      「なんのもうけにも ならねえのに いつまで はまなんかに 関わってんだ」ってな。
      
      江戸っ子は 困ってる人を見たら
      テメエが裸になっても 助けるなんて言うけどよぉ、
      そんな奴ぁ 滅多に いるもんじゃねえ。薄情はくじょうな連中ばっかりだ。
      俺だけは そんな 薄情はくじょうな奴らとは 一緒には ならねえ。
      そんな意地だ。それもある。
      
      
      でもな、俺がずっと おまえさんの ってきたモンを
      いちで 買い続けてる、その いちばんの理由は、
      ――やっぱり おまえさんへの 期待なんだよ。
      
      矩康のりやすさんが 亡くなって、
      おまえさんのるモンが 下手だからって
      誰も買ってやらなくなったら、
      おまえさん のたれ死んじまう。
      けど俺が こうやって いちずつで 買ってやってれば、
      そのうちに しょうわって ウデも上がって、
      一人前の職人に なってくれるんじゃねえかと――――
      期待してたんだよ。
      
      別に オヤジさんみたいな 名人になれ なんて思わねえよ。
      けど、ちったぁマトモなもん って来るように なってくれねえかなって 思ってたんだ。
      
      それがどうだい この有様ありさまはよ。
      
      
      奥の 物置ものおきにな、こーんな でっけえ 箱があるんだ。
      おまえさんがってきたモン 放り込んどく箱だよ。
      売りもんに ならねえから そこに放り込んどくんだ。
      
      もう 箱いっぱいだよ。箱いっぱいの ガラクタだ。何の役にも 立たねえ。
      いや、ひとつだけ 役に立つモンがあるな。河童かっぱダヌキだよ。
      覚えてねえか?
      去年だか おととしだかに おまえさんがってきた、
      頭が カッパで 体が タヌキの ワケの わからねえ みょうな 生きもんだよ。
      
      ウチで奉公ほうこうしてる 小僧たちがよ、
      怒られて つらいとき それ見て 笑って 元気になってんだとよ。
      
      小僧にまで 笑われるようなモン 平気で 持って来て、情けねえと思わねえのか?
      
      何 持って来ても こっちが ポンポン 金 出すからって、甘えてんじゃねえのか。
      
      今日のだって そうだ。
      どっかから 注文 受けたわけでもなし、
      なにも り上がって すぐに 持って来るこたァ ねえじゃねえか。
      明日でも あさってでも いいじゃねえか。
      り上げたモン ろくに 見も しねえで 持って来やがって。
      どういう了見りょうけんしてんだ。

   矩随:(ただただ恐縮)

  若狭屋:矩康のりやすさんが亡くなったとき、俺は、
      おまえさんが 一端いっぱしの職人に なるまで
      おまえさんと おっかさんの 面倒を見ると 誓った。
      
      
      だがな ――
      
      もう ここらが限界だ。


   矩随:え ――


  若狭屋:ちょいと待ってろ。(席を外す)


      
      

  若狭屋:(戻って来て、金包みを差し出す)
      ほら。

   矩随:え、あの……?

  若狭屋:5両ある。

   矩随:5両……!?
      
      あ ―― 、あの、これは ――

  若狭屋:手切てぎれだよ。

   矩随:え ――

  若狭屋:これで もう手切てぎれに してくれってんだ。
      
      5両も ありゃあ、しばらく食いつなげるだろ。

   矩随:わか狭屋さやさん……

  若狭屋:俺はもう、おまえさんにあいきた。
      
      二度と、ウチのしき またがねえでくれ。


      

   矩随:(返す言葉もなく うなだれる)
      ……。
      
      
      わかりました……。
      
      
      長い間、ご迷惑かけて、すみませんでした……。
      
      もう、こちらへは、まいりません……。

  若狭屋:ああ、矩随のりゆきさん。

   矩随:なんでしょう……。

  若狭屋:ハッキリ言った ついでだ。
      もうひとつ、言わせてもらうけどよぉ――
      
      
      俺はな、いつまでたっても ウデの悪い職人なんざ、
      死んじまったほうがいいと思ってんだ。


      

   矩随:(強烈な言葉に衝撃を受ける)
      え ――


      

  若狭屋:なんだ? 驚いた顔 してやがんな。
      そんなに意外なこと 言ったか?
      
      だがよォ、考えてもみろ。
      ヘタな職人が 生きてて どうなるよ。
      生涯 ゴミ こしらえ続けるだけだ、そうだろ?
      
      メシだけ食って メシのタネは 稼がねえ。
      そんなヤツ 死んじまったほうが
      他人ひとさまに 迷惑かけねえで済むだろ。

   矩随:……

  若狭屋:おまえさん どう思ってんだ。
      
      近所じゃあ、おまえさんは 孝行こうこうむすだって 評判だ。
      たしかに おまえさんは、おっかさんには優しいし、
      母思いの いいせがれかもしれねえ。
      でもな、それは おっかさんに対してだけだ。
      
      おっつぁんに対しては どうだ?
      孝行こうこうむすと言えるか?
      
      こんな 1もんにもならねえ ガラクタしか って来ねえで。
      おっつぁんのはいに 泥ォ塗ってるとは 思わねえのか?
      
      おまえさんが ゴミ こしらえれば こしらえるほど ――
      言い換えりゃあ、おまえさんが 生きれば 生きるほど、
      おっつぁんのはいが どんどんよごれていく。そう思わねえか?

   矩随:……

  若狭屋:おまえさんが 少しでも おっつぁんのことを思ってんなら ――
      
      いっそ死んじまったらどうだ。


      

   矩随:……


      

  若狭屋:冗談に聞こえたか?
      けど俺は 本気で言ってんだぜ。
      
      ああ、おっかさんのことは 心配するな。
      おまえさんが死んだって、俺が じつの母だと思って 面倒 見るよ。
      
      死に方が 分からねえか?
      なら 教えてやるよ。
      
      おもて 出て 左 行きな。
      妻橋づまばしが あんだろ?
      下を隅田川すみだがわが 流れてる。
      ひの ふの みぃで、ドボーンと 飛び込みゃあ、一巻いっかんの終わりだ。
      
      水が怖けりゃ 右 行けよ。
      ぞうじょうがある。
      いいえだぶりの松が 門前もんぜんわってんだ。
      その松の下に 大きい石を 持って来る。そこに乗る。おびく。
      輪っか こしらえて えだに掛ける。輪っかの中に 首つっこむ。
      ひの ふの みぃで 石を蹴る。これで終わりだ。
      
      ま、死に方なんざ どうだっていいや。
      おまえさんの好きにしな。
      それ以前に、おまえさんに 死ぬ度胸が あるかどうかも 分からねえがな。
      
      まあ とにかく、これで スッパリ手切てぎれだ。
      
      さ、帰ってくんな。


      

   矩随:……。
      
      
      はい……。
      
      
      お世話に……なりました……。

 


 

   矩随:(家路。打ちひしがれている)
      
      (ため息)
      (独白)
      俺はダメだなぁ……。
      
      わか狭屋さやさんが怒るのも 当たり前だ……。
      
      今日 り上げて 持って来い なんて 言われたわけじゃなし、
      明日でも あさってでも――
      まずくても、キチッとした物 持ってきゃ 良かったのに……。
      
      それを 目の前の金ほしさに 俺は……あんな 出来できそこないを……。
      
      
      自分じゃ 一生懸命 やってるつもりだったけど、
      ウデもしょうも、おっつぁんの 足元にも 及ばねえ……。
      
      わか狭屋さやさんの言うとおりだ……。
      
      俺みたいなヤツが 生きてたって……ゴミ こしらえ続けて……
      おっつぁんのはいに泥 塗って……わか狭屋さやさんにも 迷惑かけて……。
      
      
      あのわか狭屋さやさんに 見放されちまったら、もう おしまいだ……。
      
      
      死のう……。
      
      
      せめて……、せめて死ぬ時くらいは、きちんと死のう……。
      
      はませがれは 親に似ず 馬鹿息子だったが、死に方だけは 立派だったと、
      思ってもらえるように……。
      
      俺が張れる 意地は、もう それぐらいしかない……。

 


 

   矩随:おっかさん、ただいま帰りました……。

   母親:ああ 矩随のりゆき おかえり。
      遅かったねぇ。

   矩随:はい……。
      
      わか狭屋さやさんが、その……、
      
      色々 お話を してくださって、
      それで、遅くなりました……。

   母親:そうかい。
      
      わか狭屋さやさんは お元気でいらっしゃったかい?

   矩随:(母の目を見ることもできず、うつむき加減で)
      はい……とても お元気でした……。
      
      (直截に「死ぬ」と言って母を悲しませぬよう 嘘をつく)
      それで、その……、わか狭屋さやさんが おっしゃるには、
      「矩随のりゆきさん、一度 お伊勢いせさまに行ってみたらどうか」って……。

   母親:お伊勢いせさまに……?

   矩随:はい。
      
      男と生まれたからには、一度くらい お伊勢いせまいりを しておくものだと、
      そう おっしゃって……、ぎんにと、5両、くださいまして……。


      

   母親:(矩随の様子をじっと見ている)


      

   矩随:ですから……、お伊勢いせさまに、行って来ようと思います……。
      
      でもまあ、せてもれても、俺は男ですから、
      5両なんて金が なくても、しゃく1本あれば、旅はできますんで……、
      この5両は、ウチに 置いて行きます。
      俺が旅に出てる間、食べる物を 買うのに、お使いになってください……。


      

   母親:(矩随の様子をじっと見ている)


      

   矩随:ただ……、
      たかが お伊勢いせまいりとはいえ、
      初めての 長旅ながたびですんで、
      どこで 何があるか 分かりません……。
      
      まんいち ―― 、俺に もしものことが あって、
      帰って来られないような事が あったら ――
      
      その時は、わか狭屋さやさんを頼ってください。
      
      
      あのかたは、義理ぎりにんじょうあつかたですから、きっと ――
      じつの母のように 面倒を見てくださると思います……。


      

   母親:(矩随の様子をじっと見ている)


      

   矩随:思い立ったが何とやら と言いますから、すぐに旅支度たびじたくをします。
      
      おっかさん、どうか、お身体からだには お気をつけて ――

   母親:お待ち。
      
      
      矩随のりゆき――――
      
      おまえ、あたしに 嘘を ついてるね。

   矩随: ――
      
      いえ、そんな……嘘なんて……

   母親:いいえ。
      
      お腹を 痛めて 産んだ わが子が そんな様子で 言う言葉、
      嘘と見抜けないようでは 母親とは 呼べません。
      
      あたしの顔も 見ないで ずっと うつむいて。
      
      見れば 膝元ひざもとに ずいぶんしずくが 落ちてるじゃないか。
      
      
      
      おまえ、わか狭屋さやさんに ほどのことを言われたね?
      
      なんて言われたんだい?


      

   矩随:(涙をこらえたり こらえられなかったりしながら)
      はい ――
      
      
      おまえには もうあいきたと ――
      
      おまえみたいな、いつまでたっても ウデの悪い職人は、
      生きてたって、おっつぁんのはいに 泥を塗るだけだから ――
      
      
      死んじまったほうがいいと ――


      

   母親:ウデの悪い職人は 死んじまったほうがいい か ――
      
      
      うん ――
      
      あのかたの ごしょうなら、それくらいの事は おっしゃるかも しれないねえ ――
      
      
      それで矩随のりゆき、そう言われて、おまえは どう思うんだい?


      

   矩随:はい ――
      
      わか狭屋さやさんの おっしゃるとおりだと思います ――
      
      
      ですから ――
      
      死のうと思います ――


      

   母親: ――
      
      
      本気なのかい ――


      

   矩随:はい ――
      
      本気です ――


      

   母親:本当に ――
      
      本気で、死ぬつもりなのかい ――


      

   矩随:はい ――
      
      
      おっかさん、出来できの悪い息子で、申し訳ありませんでした……。
      
      
      せめてさいくらいは、男らしく、立派に死のうと思います ――
      
      どうか、先立つこうを お許しください ――


      

   母親: ――
      
      
      分かった。
      
      
      おまえが そこまで 気持ちを固めてるのなら、
      おっかさん めやしないよ。
      
      
      それで、どうやって 死ぬつもりなんだい ――

   矩随:たがね・・・ ―― のどに 突き刺して ――
      死のうと思います。

   母親:およし。
      職人が 自分の商売道具を 血でよごすなんて事 しちゃいけないよ。
      
      ちょっと待っといで。(中座する)


      

   母親:(戻ってくる。短刀を矩随の前に差し出して)
      さ、これを お使いなさい。

   矩随:これは ――

   母親:ウチの人が 大事に持ってた すん五分ごぶだよ。

   矩随:おっつぁんの ――

   母親:おまえの おっつぁんはね、
      納得のいく物が れなくなったら いつでも 死ねるようにって、
      これを 持ってらしたんだよ。
      
      ま、これを使う前に、やまいっちまったんだけどね ――
      
      
      矩随のりゆき、おっつぁんなら 許してくださる。
      これ、使わせてもらいな。

   矩随:はい ――
      ありがとうございます ――
      
      
      では、おっかさん ――
      
      ながらく お世話になりました ――

   母親:お待ち 矩随のりゆき

   矩随:どうしました?

   母親:矩随のりゆき
      
      っちまう前にね、おっかさんの 頼み事、
      聞いちゃ くれないかい ――

   矩随:ええ、なんでも いたします。
      どうぞ、おっしゃってください。

   母親:おまえも職人。
      
      この母のために、形見になる物を っておくれ。

   矩随:……おっかさん、どうかそれは、勘弁しておくんなさい。
      
      俺のウデは、とても職人と呼べるようなもんじゃありません。
      
      馬をれば 3本脚ぼんあしに、カッパをれば タヌキになっちまう。
      
      わか狭屋さやさんのところには、
      俺がこしらえた ガラクタが 箱いっぱいに あるんです。
      この上 さらに もう1つ、この世に 恥を残せだなんて……、
      それは、あんまりでございます……。

   母親:いいえ矩随のりゆき
      たとえ どんな物であっても、
      おまえがってくれた物でさえ あれば、
      あたしにとっては 大事な形見なんだよ。
      
      おまえがっちまったら、おっかさんは ひとりになっちまう。
      
      母のことを 思ってくれるなら、
      この年寄りの せいなぐさみに、
      ひとつ こしらえておくれ。

   矩随:……。
      
      そこまで おっしゃるなら……
      
      形見を1つって、それからきます……。

   母親:ありがとうよ矩随のりゆき
      
      それじゃあ……、そうだねえ……、
      
      観音様かんのんさまの お姿すがたっておくれ。

   矩随:観音様かんのんさま……!?
      
      いけません おっかさん。
      俺みたいな、馬やイノシシすら まともにれない下手へたくそが、
      観音様かんのんさまるだなんて、そんな、
      もったいなくて できません……!

   母親:いいから。
      
      おまえがってくれた物であれば、
      どんな出来できだって かまわないんだよ。
      
      おっつぁんも 信心しんじんしてらして、あたしも信心しんじんしてる 観音様かんのんさま
      おまえに ってもらいたいんだよ。
      
      どうか おっかさんのために、っておくれ。

   矩随:……。
      
      
      分かりました……。
      
      では……、やってみます……。

   母親:うん。
      
      その観音様かんのんさまは、おまえが たった1つ、母に残してくれる形見。
      そして おまえが この世でるう 最後のとう
      
      おまえの人生、おまえの命、おまえのたましい ――
      それを 一刀一刀いっとういっとうにこめて、どうか、一心いっしんっておくれ。

   矩随: ―― 承知しました。
      では、さっそく 取り掛かります。
      
      あ、その前に、おっつぁんのはいに ご挨拶を。
      
      (父の位牌に手を合わせて)
      おっつぁん、出来できの悪いせがれで、申し訳ありませんでした。
      
      もったいないことに、これから 観音様かんのんさまらせていただきます。
      
      しょうはま矩随のりゆき、これが 今生こんじょうでの とうおさめになります。
      
      どれだけの物がれるか 分かりませんが、
      一生懸命 こしらえますんで、どうか 見ていて おくんなさい。
      
      これがり上がりましたら、おっつぁんの所へ参ります ――
      
      では――

 


 

   語り:そうして矩随のりゆきは、さい工場くばにしている 奥のへと入って行き、
      とうって 観音像かんのんぞうり始めました。
      
      自分が この世で 最後にしな
      そして 最愛の母に残す 唯一の形見。
      
      矩随のりゆきは、一刀一刀いっとういっとう、心を込めて、
      丁寧に丁寧に ってゆきました。
      
      
      日が とっぷりと暮れて 暗くなっても、
      矩随のりゆきは 食事をることも忘れ、
      無我夢中で 作業を続けました。
      
      
      真夜中になると、さすがに 疲れが出たものか、
      ねむに襲われ、ついウトウトと してしまいました。
      
      すると ――

   矩随:(何かが聞こえてくる)
      
―― ん?
      隣の部屋から 何か 聞こえてくるな。
      
      あれは ―― 、おっかさんの声 ――


   母親:南無なむ 観世音かんぜおん さつ
      どうか矩随のりゆきに、立派な物を らせてくださいませ…
      
      南無なむ 観世音かんぜおん さつ
      どうか矩随のりゆきに、立派な物を らせてくださいませ…


   矩随:おっかさん……。
      
      おっかさんも、寝ないで 観音様かんのんさまに お祈りしてくださってるんだ……。
      
      ウトウトなんて しちゃいられない。
      (両の頬をパンパンと叩く)よし、るぞ!

 


 

   語り:それから矩随のりゆきは、三日三晩みっかみばん、飲まず食わずで
      一心いっしん観音像かんのんぞうり続けました。
      
      そして4日目の朝――


      
      

   矩随:できた……!


      

   語り:最後の一刀いっとうを入れ終え、
      ついに 矩随のりゆき観音像かんのんぞうを完成させました。
      
      り上がった観音像かんのんぞうを手に さい工場くばから出てきた 矩随のりゆきは、
      せいこん てたように せ細り、顔色も 真っ白で 髪も 乱れ、
      しかし それでいて どこか神々こうごうしさを たたえており、
      まるで この世の人では ないような 姿でした。

   矩随:おっかさん……。
      おっかさんへの形見……、
      ようやく、り上がりました……。
      
      どうぞ……ごらんに なってください……。
      (観音像を差し出す)

   母親:矩随のりゆき……がんばったんだね……ありがとう……。
      見せてもらうよ……。
      
      (観音像を目の前に置いて よく見る)
      
      (それはそれは見事な出来ばえである)
      
      (感動と喜びに胸がいっぱいになる)
      
      
      まあ……!
      
      なんて いい お顔を していらっしゃるんでしょう……!
      
      
      矩随のりゆき……立派なものを こしらえてくれたね……!
      
      ありがとう……!ありがとう……!

   矩随:いいえ……俺がっている間、
      おっかさんが 懸命に 拝んでくださった おかげで……
      どうにか り上げることが できました……。
      ありがとうございます……。
      
      それでは おっかさん、おさらばでございます ――

   母親:待っとくれ 矩随のりゆき

   矩随:え……?

   母親:もう1つ、最後に もう1つだけ、
      おっかさんの頼みを 聞いとくれ。

   矩随:はい……、俺に、できる事でしたら……。

   母親:それじゃ……、
      
      この観音様かんのんさまね、わか狭屋さやさんへ 持って行って、
      売って来ておくれ。

   矩随: ―― え!?
      
      いえ、でもそれは、おっかさんへの 形見ですから ――

   母親:それは そうなんだけどね。
      
      この観音様かんのんさま、とっても よくれてる。
      
      ぜひわか狭屋さやさんに 見せてあげたいと思ってね。
      
      それも、いつもみたいに
      いちの お金と 換えていただくために 見せるんじゃなくてね、
      職人の手がけた品物しなものとして、見せて さしあげたいんだよ。

   矩随:おっかさん……、それは どうか ご勘弁を……。
      
      わか狭屋さやさんには、
      もう二度と ウチのしきまたぐなと、
      きつく 言われてしまってるんで……。
      今 ノコノコ 出掛けて行ったら、
      まだ生きてやがるのかと、叱られてしまいます……。
      
      どうぞ ご勘弁ください……。

   母親:顔を見せづらい気持ちは 分かるけど、でも、
      そこをなんとか こらえて、行っておくれ。
      お願いだから……。

   矩随:……。
         
      では……、行くだけは、行ってみます……。

   母親:ありがとう矩随のりゆき
      
      わか狭屋さやさんに これを 見せたらね、
      この品物しなもの、30両でございますと お言い。
      ビタ1もん まけるわけには まいりませんと。

   矩随:さ、30両……!?
      何を言ってるんですか おっかさん……!
      
      俺の る物の 値打ちなんて、たったいち……
      いえ、それもわか狭屋さやさんが 義理ぎりで くださってるだけで、
      本当は1もんにもならないガラクタ……。
      
      それを、30両 ビタ1もん まからない だなんて、
      そんなこと 言えるわけがありません……!

   母親:お願いだよ 矩随のりゆき
      
      おっかさんは これでも、名人・はま矩康のりやすの妻。
      
      おまえが 今まで わか狭屋さやさんに 持って行ってた物と、
      今 目の前にある この観音様かんのんさまと、
      同じか そうでないか 分からないほど、目は腐っちゃいないつもりさ。
      
      でも もしかしたら、
      いつぞや おまえが 言ってたように、
      親のよくってやつかもしれない。
      
      だからね矩随のりゆき
      おっかさんの目に 狂いが 無いかどうか、
      これを わか狭屋さやさんに見せて、確かめておくれ。
      
      これが、本当に 最後の お願いだよ。
      どうか 聞いておくれ……!(頭を下げる)

   矩随:…………。
      
      分かりました。
      おっかさんの おっしゃるとおりにします。
      ですから、頭、上げてください。

   母親:行ってくれるかい……?
      
      ありがとうよ矩随のりゆき……。

   矩随:では、すぐに行って来ます。

   母親:お待ち 矩随のりゆき
      
      おまえ、3日も 飲まず 食わずだろ?
      せめて 水でも 飲んで お行き。
      んできてあげるから。

   矩随:すみません、ありがとうございます。

   母親:(椀に水を汲んで持って来る)
      ほら、矩随のりゆき、お飲み。

   矩随:はい。(椀を受け取る)

   母親:ああ、おっかさんも のどがかわいてるからね、
      半分飲んだら、残りの半分は おっかさんに とっといておくれ。

   矩随:分かりました。
      いただきます。(半分飲む)
      では残りを おっかさん どうぞ。(椀を渡す)

   母親:ありがとう。
      じゃ おっかさんも いただくよ。(飲む)

   矩随:では、行ってまいります。

   母親:うん。
      
      (戸口を出ようとする息子の背に)
      矩随のりゆき ――


      

   矩随:はい。


      

   母親:気を付けて、行っておいで ――


      

   矩随:はい。では。(行く)

 


 

  若狭屋:(先日 矩随に「死ね」と言ったことを後悔している)
      (ため息)今日で 3日目か……。
      矩随のりゆきさん 大丈夫かなぁ……。
      
      やっぱり 言い過ぎたよなぁ……。
      どうして俺って こうなんだろ……。
      
      矩随のりゆきさんに かわいそうな事 しちまったなぁ……。
      
      心配だなぁ……。
      今日あたり、定吉にでも
      様子 見に行かせたほうが いいかなぁ……。
      
      (店の外へ向けて)
      定吉! 定吉や!

   定吉:はーい。

  若狭屋:まだ おもての掃除 してるのかい?
      終わったら ちょいと 来とくれ!

   定吉:はーい。
      
      (掃除しながら独白)
      終わったらって 言ったってなぁ……、
      こう 次から次へと 葉っぱが 落ちて来たんじゃ、
      いつまでたっても 終わらないんだよなぁ……。
      
      (葉が落ちるのを見て)
      あ、ホラまた!
      
      こっちをいてたら、そうやって
      そっちから 落ちてくるでしょォ?
      で、オイラが そっち行って いてたら、
      今度はまた こっちから 落ちてくる。
      
      (落ち葉相手にぼやく)
      もぉ!
      そーやって バラバラに 落ちてくるから、こっちは 大変なんだよぉ!
      いつまでたっても 終わらないから、いつも だんな様に
      「たかが 掃除に どれだけ掛かってんだー!」って 怒られちゃうんだよ!
      
      (独白)
      ウチの だんな様、やさしい人なんだけど、怒ると コワいからなぁ……。
      
      こないだだって そうだよ。
      のりゆきさん かわいそうだったなぁ。
      小僧でもないのに、あんなポンポンポンポン おごと ちょうだいして。
      
      おしまいには、
      「おまえみたいな ウデの悪い職人は 死んじまえー!」
      なんて言われてさ。
      ひどいよねえ。
      いくら小僧でも、「死ね」とまでは 言われないもんねぇ。
      
      まぁ だんな様も コワかったけど、
      その話 聞いて 怒った おかみさんも コワかったなぁ……。
      
      だんな様の えりくび つかんで、
      「おまえさん!!矩随のりゆきさんに なんてこと 言ったんだい!!
       お世話になったかたせがれさん つかまえて 死ねだなんて!
       おまえさん! それでも 人間ですかー!!」って。
      
      言ってる おかみさんが
      もう人間じゃなくて 鬼みたいだったもんねぇ……。
      
      
      それにしても、のりゆきさん、どうしたかなぁ……。
      
      のりゆきさん、マジメな人だもんねぇ。
      あんなひどいこと 言われたら、
      もうゼッタイ あの日に 死んでるよねぇ。
      
      あの日に 死んだとなると――
      そろそろ 今日あたり 化けて 出るんじゃ……
      (向こうから矩随の姿が近づいてくる。痩せ細り、顔は白く、幽霊みたい)
       ―― !!!!
      
      で、出たぁ~!!
      
      (若狭屋のもとへ駆け込み)
      だんな様!大変です!

  若狭屋:ああ定吉。なんだい騒々しい。どうしたんだい?

   定吉:出ました!!

  若狭屋:出た?何が?

   定吉:のりゆきさんの ゆうれいが!!

  若狭屋:矩随のりゆきさんの幽霊?

   定吉:い、いま、こっちにむかって、歩いてくるんです!!

  若狭屋:落ち着きなさい。
      
      幽霊だって?
      こんな明るいうちに?
      
      それに 歩いて来るって?
      幽霊には 足が無いんじゃないのかい……?
      
      定吉、それ 矩随のりゆきさんの幽霊じゃなくて、
      本物の 矩随のりゆきさんじゃないか?

   矩随:(開いた戸口から姿を見せる)
      あの……わか狭屋さやさん……

   定吉:わああああああ!

  若狭屋:(矩随の風貌に一瞬 面食らう)
      の、矩随のりゆきさんかい……?

   矩随:おはようございます……矩随のりゆきでございます……。

  若狭屋:幽霊じゃ、ないね……?

   矩随:え……?
      いえ、幽霊じゃ ございません……。

  若狭屋:(矩随の風貌に見入る)
      定吉が 幽霊と 見まちがえるのも 無理はない……。
      おまえさん、まるで この世の人じゃない みたいな 様子じゃないか……。
      
      (我に返る)
      ああ!
      ま、とにかく、上がっとくれ 上がっとくれ!

   矩随:はい……失礼いたします……。
      
      わか狭屋さやさん、申し訳ありません……。
      
      死ねと言われたのに……
      まだ、生きておりました……。

  若狭屋:いやいやいやいやいやいやいや!!
      矩随のりゆきさん!そのことだよ!
      
      こないだは もう、ほんっっとに 悪かった!
      私が 言い過ぎた!
      
      あんときの 私ねえ、前の日の酒が 残ってて、
      ちょいと どうかしてたんだ。
      
      私の 悪いクセでね、酒が入ると、なんでもかんでも
      ついズバーッと 言っちまうんだ。
      あんな事ねえ、これっぽっちも 言うつもり 無かったんだよ。
      
      いやもう、二日酔いで 店に出てる商人あきんどのほうが
      よっぽどタチが悪いよなぁ、いや面目ない。
      
      カカアにも こっぴどく 叱られたよ。
      お世話になったかた せがれさんに なんてこと言うのーッてね。
      まったく その通りだよ。
      
      いやあ、あれからずっと おまえさんのこと 心配してたんだ。
      今日あたり 定吉に 様子を見に 行かせようかと 思ってたところでねえ。
      
      いや おまえさんのほうから 来てくれて よかったよ、安心した。
      ほんとに 悪かった、勘弁しとくれ、このとおりだ。
      これからもね、何かった物が あったら、
      どんな物でも いい、どんな出来できでも いい、
      今までと 同じように、ウチに 持って来ておくれ。
      必ず いちで 買い取るから。
      
      今日も、何か 持って来たんじゃないのかい?
      そこに持ってる 風呂ふろ敷包しきづつみ、そん中に なんか入ってんだろ?
      見せておくれよ。今日は どんな物を 持って来たんだい?
      ブタとタヌキの いのかい?2本脚ほんあしの馬かい?

   矩随:いえ……。
      
      今日 お持ちしましたのは……、観音様かんのんさまぞうです……。

  若狭屋:ほう、観音様かんのんさま
      珍しいねぇ。
      見せとくれ。

   矩随:はい……。
      
      (風呂敷の包みを解く)
      これなんでございますが……。

  若狭屋:お、見せてもらうよ。
      
      どれどれ……
      
      
       ―― !!
      
      
      (目の前にあるのは見事に彫り上げられた観音像)
      (かの名工・浜野矩康が手掛けたとしか思えない出来映え)
      
      (慈愛に満ちた観音様の顔を、感動に震えながら見る)
      
      (そして我知らず 手を合わせ 深々と頭を垂れる)
      
      
      (観音像にむけて)
      南無なむ 観世音かんぜおん さつ……。
      
      矩康のりやすさん…………お久しゅうございます…………。
      
      
      (頭を上げて 矩随にむけて)
      矩随のりゆきさん、よくぞ、よくぞ 持って来てくれたね……。
      
      いやね、こないだ 往来おうらいで、おまえさんの おっかさんと バッタリ出くわしてね。
      矩康のりやすさんの品物しなもの、何でもいい、1つでも 残ってませんかって いたんだけどね……、
      もう残らず 食べる物に 換えてしまいましたって 言われちゃって、ガッカリしてたんだ。
      
      なるほど……、この観音様かんのんさまだけは、最後の 形見として、
      大事に とってなさったんだね……。
      
      なんだか 忍びない気もするが、私も商人あきんど
      これほどの物を 見せられたんじゃあ、
      買い取らないわけには いかない。
      
      矩随のりゆきさん、このわか狭屋さやで買おう。
      
      この観音像かんのんぞう、いくらだい?

   矩随:いえ……、あの、これは……

  若狭屋:(みなまで言わせず 手で制して)
      ああ矩随のりゆきさん。
      これだけの物を 目の前にして、
      もう 細かい事は 言いっこ無しに しようじゃないか。
      
      この観音様かんのんさま、いくらで売るか、そのあたいだけ 言っとくれ。

   矩随:あ……、あの、その……。
      
      び……、ビタ1もん、まけるわけには いかないんですッ ――

  若狭屋:いや 何 言ってんだい おまえさん。
      誰が まけろなんて言ったよ。
      だいたい まけるに したって、まず あたいを 言ってからだろ?
      
      あのねえ、こんな ありがたい品物しなもの 値切ねぎろうだなんて、
      そんな ケチな了見りょうけん 持ってないよ。
      
      さ、いくらだい?言っとくれ。

   矩随:はい……。
      
      あの……その……、
      
      さ……、さ……、
      
      30両ですッ ―― !!

  若狭屋:30両 ――
      
      30両なのかい ――

   矩随:は、はいッ ――
      
      あ、あの、
      
      い、1もんも、まけるわけには まいりませんッ!

  若狭屋:だから 誰も まけろだなんて 言いやしないよ。
      
      30両だね。
      
      よし。買った!!

   矩随:え ―― ??

  若狭屋:ちょいと 待ってておくれ。(中座)


      

  若狭屋:(金包みを持って戻る)
      さ、矩随のりゆきさん、30両だ。(金包みを矩随の前に置く)

   矩随:30両 ――
      
      本当に、30両で、買っていただけるんですか ――

  若狭屋:もちろんだよ。
      この品物しなものを 30両なら、安いもんだ。

   矩随:(嬉し泣き)
      あ ―― ありがとう ―― ございます……。

  若狭屋:ん ――
      
      矩随のりゆきさん、30両が 嬉しくて 泣いてんのかい?
      
      まぁ 嬉しいだろうけどさ、
      おっつぁんのった物が たかで売れて
      嬉し泣き してるようじゃあ まだまだだよ。
      精進しょうじんしてウデあげて、いい物が れるように なりゃあ、
      おまえさんだって 20両や 30両 稼げるんだ。
      
      いや それにしても、よく これを 持って来てくれたねえ。
      久しぶりに 矩康のりやすさんに会った こころちがした。
      矩随のりゆきさん、ありがとうよ。

   矩随:わか狭屋さやさん ――
      
      わか狭屋さやさんは、その観音像かんのんぞう ――
      父が った物と ――
      お見受けで いらっしゃいますか ――

  若狭屋:ん?
      
      当たり前じゃないか。
      私が 何年 矩康のりやすさんの品物しなものを 見てきたと思ってるんだい。
      
      昨今さっこん 江戸で、これほどの物を こしらえられる 職人は、
      矩康のりやすさんをおいて 他には 無いよ。
      
      見てごらん、観音様かんのんさまの この目を。
      「がん」と言ってね、お慈悲じひに満ちた目を なさってる。
      この目があるから、こんな小さなぞうに、
      大の 大人が 手を合わせて すがるんだよ。
      った人のたましいが こもってなきゃ、こんな目には ならない。
      まさに、仏 作って たましいを入れてある。
      
      世の中にはね、「上手じょうず」と呼べる職人は たくさんいるよ?
      だがね、「名人」と呼べる職人なんてのは ごくごく わずかだ。
      
      おまえさんの おっつぁんは、その数少ない 名人だった。
      この観音様かんのんさまは、まちがいなく 名人の作だ。
      私の目に 狂いは無いと思うよ。

   矩随:これが ―― 名人の作 ――
      
      ありがてぇ ―― ありがてぇ ―― (感涙)

  若狭屋:どうしたんだい 矩随のりゆきさん。
      さっきから おかしな様子だねえ。

   矩随:わか狭屋さやさん ――
      
      
      この観音像かんのんぞう ――
      
      まえった物でございます ――

  若狭屋: ―― え?
      
      おいおい 矩随のりゆきさん、それは いけない、それは いけないよ。
      おっつぁんの った物を 自分のがらに しようだなんて、
      そこまで 落ちぶれちまったら おしまいだよ。
      
      さ、すぐに おっつぁんに あやまんな。
      そしたら 今のは 聞かなかったことに してやるから。

   矩随:いえ、わか狭屋さやさん。
      本当なんです。
      その観音像かんのんぞうは、しょうしんしょうめい
      この矩随のりゆきった物でございます ――
      
      底を ごらんになってください。
      めいが 刻んであります ――

  若狭屋:なんだって……?
      
      (像の底面を見る。「矩随」と銘が刻まれている)
      「矩随のりゆき ―― 。たしかに 矩随のりゆきと刻んである ――
      他のめいを消した あともない ――
      
      それじゃ矩随のりゆきさん ――
      
      本当に ―― 本当に おまえさんが ――
      
      このぞうったのかい ―― !?

   矩随:はい ――

  若狭屋:(信じられない思いで 観音像と矩随を見比べる)
      
      (手をついて頭を下げる)
      矩随のりゆきさん ――
      おそれいりました ――
      
      このわか狭屋さや、感服いたしました ――

   矩随:わ、わか狭屋さやさん ―― !?
      
      や、やですよぉ。
      どうか、頭を上げてください。

  若狭屋:(頭を上げて)
      いやぁ矩随のりゆきさん、よくやったねえ ――
      よく これだけの物を こしらえたねえ ――
      
      こう言っちゃあ 失礼なんだが ――
      今でも 信じられない思いだよ。
      
      矩随のりゆきさん 教えておくれ。
      いったいどうして 観音様かんのんさまろうと思ったんだい?
      そして ――
      どうして こんなにも 見事に り上げることが できたんだい ――

   矩随:はい ――
      
      
      わか狭屋さやさんに もう来るなと言われて 帰った日 ――
      あっしは、本当に 死のうと思っていました ――
      
      おっかさんには 黙って 死のうと思って、
      お伊勢いせまいりに行くと 嘘を ついたんですが、
      おっかさんに 嘘を ついてるのが バレてしまって ――
      
      それで、本当は 何が あったのかと かれて、
      「実は今日 わか狭屋さやさんに、
      『ウデの悪い職人は 死んだ方がマシだ』と言われました」と言ったら ――

  若狭屋:ちょちょちょ……、それ言っちゃったのかい!?
      マズいよぉ……。
      
      それじゃ おっかさん、このわか狭屋さやのこと、
      さぞ 怒ってらっしゃるだろうね……?

   矩随:いえ。
      「あのかたの ごしょうなら それくらいの事は おっしゃるだろう」と……。
      
      それで、おまえはどうするつもりかと かれましたんで、
      死ぬつもりですと 答えました。
      
      そしたら、おっかさんが、
      形見に 観音像かんのんぞうってくれと おっしゃって……。
      
      「その観音様かんのんさまは、おまえが たった1つ 母に残してくれる 形見。
       そして おまえが この世でるう 最後のとう
       おまえの人生、命、たましい ―― それを 一刀一刀いっとういっとうにこめて、
       どうか 一心いっしんっておくれ」と……。
      
      ですから あっしは、一刀一刀いっとういっとう一心いっしんりました。
      
      途中 ねむに襲われて ウトウトしたんですが、そしたら 隣の部屋から、
      「南無なむ 観世音かんぜおん さつ、どうか矩随のりゆきに 立派な物を らせてください」と
      おっかさんが お祈りしてくださってる 声が聞こえて……。
      ウトウトなんて していられないと また気を取り直して……。
      
      
      それからは もう無我夢中で とうを入れ続けて……
      
      気付いたら、三日三晩みっかみばん、飲まず食わずで り続けて……、
      今朝けさがた、ようやく り上がりました ――

  若狭屋:そうだったのかい……。
      
      
      矩随のりゆきさん、それだよ。
      
      
      おまえさんは、死ぬつもりだった。
      そして おっかさんへの形見にと、無心で これをった。
      だからたましいが こもった。
      
      世間には、
      「人間 死ぬ気になれば 何事も 成せる」なんぞと かす連中は 大勢いるが、
      実際 本当に 死ぬ気になって 何かを成そうとする奴なんざ、滅多に いるもんじゃない。
      
      職人の世界だってそうだ。
      
      ただ かたちきれいに 見映みばえ良く る職人は たくさんいるよ。
      でも それは ただの「上手じょうず」だ。
      
      どんな はした・・・仕事にも、これを 手にする人への 形見にするつもりで ――
      これをり上げたら、もう いつ死んでもいい という 覚悟を持って ――
      
      そうやって とうるのが 「名人」てもんだ。
      
      おまえさんは それができた。たいしたもんだ。

   矩随:ありがとうございます ――

  若狭屋:これだけの出来映できばえだ。
      おっかさんも 喜んだろ。

   矩随:はい。
      とても いい お顔をしてらっしゃると 言ってくれました ――
      この観音様かんのんさまわか狭屋さやさんの所に 持って行けと 言ったのも、
      おっかさんだったんです ――

  若狭屋:そうだったのかい。

   矩随:ええ ―― 、30両 ビタ1もん まけるなと おっしゃって ――

  若狭屋:なるほど ――
      
      さすが矩康のりやすさんの細君さいくんだ。分かってらっしゃる ――
      
      おまえさんから これを見せられた時、おっかさん 嬉しかったろうなぁ ――
      おまえさんも、嬉しかろうね ――
      
      でもねえ ―― 、今日のところは、
      私が いちばん嬉しいってことに しといちゃ くれないかい ――
      
      こないだも どう具屋ぐやれんちゅう寄合よりあいに行った時 さんざん 言われたんだ。
      「わか狭屋さやよぉ、おまえ まだ はませがれの 相手なんて してんのか」
      「『名人に 二代にだい 無し』って言葉 知らねえのか」
      「オヤが名人だったからって せがれ 名人になると思ったら 大間違いだ」
      「それが 分からねえなんて わか狭屋さや、おめえも とうとう 耄碌もうろくしたか」
      寄ってたかって 笑い者にされたよ。くやしかった。
      
      でも 次の寄合よりあいで そいつら 見返してやれるよ。
      
      この観音様かんのんさま 持って行って、
      「どうだい おまえら!
       みんなが さんざんコケにしてた 矩随のりゆきさんが、
       これだけの物を ったぞ!」
      そう言ってやれるよ ――
      
      (しみじみ。涙さえ浮かべて)
      こんな日が 来るなんてなあ ――
      生きてて よかった ――
      
      (我に返る)
      ああ、すまないね、つい しみじみ しちまった。
      
      そういえば おまえさん、
      三日三晩みっかみばんも 飲まず食わずだって 言ってたね。
      すまないね、話し込んじゃって。
      何か 持って来させよう。のど、かわいてるだろ?

   矩随:いえ。うちで水を わんに半分、飲んできましたんで ――

  若狭屋:わん ―― 半分 ――
      
      水を ――

   矩随:ええ。出がけに おっかさんが、わんに水を いでくださって。
      半分は おっかさんが飲みたいと おっしゃるんで、
      半分だけ いただいて、残りの半分を おっかさんが飲んで ――
      それから、出てきました。

  若狭屋:(何やら真剣に考えている)
      
       ―― 矩随のりゆきさん、おまえさんが この観音様かんのんさまってる間、
      おっかさんは、がんけをしてらっしゃったと 言ってたね……?

   矩随:がん ――
      
      ああ、はい、
      
      「南無なむ 観世音かんぜおん さつ、どうか矩随のりゆきに 立派な物を らせてください」と ――

  若狭屋:そして今朝けさ、水を半分ずつ ――
      
      おい矩随のりゆきさん、すぐ帰りなさい。嫌な予感がする。

   矩随:え ――

  若狭屋:今朝けさのその水。
      
      それ、もしかして、みずさかずきじゃないか ――

   矩随:みずさかずき ―― !?
      
      ああッ!!

  若狭屋:矩随のりゆきさん早く!早く帰るんだ!!

   矩随:は ―― はいッ!!

 


 

   語り:みずさかずきというのは、二度と会えない別れの前に 飲みわす 水のことです。
      
      
      わか狭屋さやの店を 飛び出した 矩随のりゆきは、
      わが家へ向けて 無我夢中で 駆けました。
      
      今朝けさ 母と飲みわした水。
      それが みずさかずきだった などとは、
      わか狭屋さやに言われるまで 思いもよりませんでした。
      
      死のうとしていたのは、自分なのに ――
      
      死のうとしていた矩随のりゆきに 形見を残してくれと 頼んだ母 ――
      
      その母が、まさか 死のうとしていたなんて ――


      

   矩随:(息を切らして駆けながら。独白)
      おっかさん……!
      
      死なないでくださいッ ――
      
      おっかさん ―― !!

 


 

   語り:転がるようにして 家に たどり着いた 矩随のりゆき
      
      ぴたりと閉まった おもてを もどかしい思いで 引き開け、
      中に ってみますと ――
      
      
      薄暗い 6畳の
      
      ぷんと鼻を突く 線香の匂い。
      
      部屋の中央に、普段は 壁際かべぎわに寄せてある衝立ついたて
      
      
      震える手で、その衝立ついたてを どかせてみますと ――


      

   矩随: ―― !!
      
      
      おっかさん……


      

   語り:矩随のりゆきが そこに見たものは ――
      
      
      父の形見のすん五分ごぶで のどをひときにした 見事なさい
      
      
      血だまりの上に 倒れ伏し、すでに こと切れた 母の亡骸なきがらでした ――


      

   矩随:(がっくりと膝をつく)
      
      おっかさん……。
      
      
      (涙 滂沱)
      俺が 立派な物を れるように、
      命をささげて がんを掛けてくださってたんですね……。
      
      
      おっかさん……喜んでください……。
      あのわか狭屋さやさんが、俺がった観音様かんのんさまを、
      おっつぁんのものと お間違えになったんですよ ――
      
      
      おっかさんが、らせてくださったんですね……。
      
      俺の未熟なウデじゃ 足りないところに ――
      
      自分の命を 足してくださって……!
      
      
      おっかさん……
      
      おっかさんッ……!

 


 

   語り:あとから 駆け付けた わか狭屋さや じん兵衛べえの 手助けもあり、
      どうにか無事に とむらいまで 済ませることができました。

 


 

   矩随:すみません、わか狭屋さやさん……。
      こんな時にまで、お世話になって……。

  若狭屋:いやいや。こんな時だからこそだよ。
      おまえさんも大変だったんだ。気にしなさんな。

   矩随:ありがとうございます……。

  若狭屋: ――
      
      
      矩随のりゆきさん ――
      
      
      まだ ―― 死のうなんて 思ってるんじゃないだろうね ――


      

   矩随:え ――
      
      
      ……。


      

  若狭屋:矩随のりゆきさん。死んじゃいけないよ。
      
      おまえさんの おっかさんは、命をけて、おまえさんのために、
      職人への ―― 名人への 道を付けてくださったんだ。
      死んじまったら、おっかさんが浮かばれない。
      
      おっかさんが付けてくれた道、
      しっかり 歩いてかなきゃ いけないよ。

   矩随:俺 ――
      
      ひとりで ―― できるでしょうか ――

  若狭屋:おまえさんなら できるさ。
      それに、私も およばずながら 力になるつもりだ。
      
      あ、そうだ。
      
      (かたわらの風呂敷包みから観音像を出して)
      
      ほら、おまえさんがった観音様かんのんさま、返しておくよ。

   矩随:え、これ……

  若狭屋:おとむらいのあいだに ウチの者に 持って来させておいたんだ。
      
      これ、今は おまえさんが 持っていなさい。

   矩随:え、でも……

  若狭屋:いやいや、別に 30両 返せなんて 言いやしないよ。
      私はこれを 30両で買った。その事実は 変わらない。
      
      ただ、今はまだ、おまえさんの手元に 置いておきなさい。
      
      
      この観音様かんのんさまには おまえさんのたましいが入ってると言ったね?
      
      でも おまえさんのだけじゃない。
      
      おっかさんのたましいも入ってる。
      
      それから多分、矩康のりやすさんのたましいも。
      
      この観音様かんのんさまったのは おまえさんだが、
      これほどのモノに 仕上がったのは、
      おまえさんが思うとおり、おっかさんが
      自らの命を 足してくださったから かもしれない。
      
      おまえさんの 真価が 問われるのは これからだ。
      
      おまえさんは まだまだ 未熟かもしれない。
      自信だって 持てないかもしれない。
      
      だからね、今はまだ、この観音様かんのんさま ――
      おっつぁんと おっかさんに 頼りなさい。
      
      観音様かんのんさまがんを通して、
      いつでも おまえさんのことを 見ていてくださる。
      
      この観音様かんのんさまさい工場くばに置いて、
      おまえさんの仕事ぶりを 見てもらいなさい。
      
      つらい時は すがりなさい。
      苦しい時は はげましてもらいなさい。
      そして ――
      いい物がれたら、褒めてもらいなさい。
      
      そうやって精進しょうじんして精進しょうじんして ――
      おまえさんに この観音様かんのんさまが 必要なくなったら ――
      その時は、私がまた 引き取りますよ。

   矩随:わか狭屋さやさん ――

  若狭屋:それでいいかい ――

   矩随:はい ――
      
      ありがとうございます ――

  若狭屋:ホントにいいのかい?
      
      その頃には その観音様かんのんさまの値打ち、30両どころか、
      300両になってるかもしれないよ ――

   矩随:(少し笑って)
      そうなるように ―― 精進しょうじんいたします ――

 


 

   語り:さあ それからというもの、矩随のりゆきの 仕事ぶり、
      そして る物の 出来できが、以前とは ガラッと変わりました。
      
      どんな物をる時でも、まさに り終わらば 死ぬる覚悟。
      
      一刀一刀いっとういっとう 鬼気ききせまるような 迫力と緊張感。
      
      ウデは どんどん上がり、る物 る物、
      思わず ため息が出るほど 見事な物ばかり。
      
      それをあつかわか狭屋さや手腕しゅわんも 手伝って、
      矩随のりゆき品物しなものは 飛ぶように売れ、
      「名人・はま矩随のりゆき」の名は またたくに 広まりました。
      
      さあ そうなりますと、
      ソッポを向いていた 道具屋の面々も
      手のひらを 返したように 矩随のりゆきを 取り巻いて、
      ってください 売ってくださいと 拝み倒します。
      
      しかし矩随のりゆき ――


      

   矩随:まえ りました物は 全て、
      わか狭屋さやさんに おおさめすることに しておりますので ――


      

   語り:ということで わか狭屋さやの独占。
      
      わか狭屋さやの店の前には 連日 長蛇ちょうだの列が でき、
      また江戸じゅうから ひっきりなしに 注文が殺到するという 大繁盛。
      
      その評判は 江戸だけに とどまらず、やがて 日本全国にまで 広がって、
      わざわざ遠方えんぽうから やって来る買い手も 現れるほど。


      

    男:ああ、こらどうもわか狭屋さやはん。
     《対訳:ああ、これはどうも 若狭屋さん》
  
      いや、まえどものあるじが、矩随のりゆき先生の らはったモン
      どうしても 欲しいさかい うて来いと 申しますんで、
      はるばる 参りましてん。
     《いや、手前どもの主が、矩随先生の彫られた物、
       どうしても欲しいから 買って来いと申しますので
       はるばる 参りました》

  
      どうでっしゃろなあ、矩随のりゆき先生のモン 一品ひとしな、売っていただけまへんやろか?
     《どうでしょうなあ、矩随先生の物 一品、売っていただけませんでしょうか》

  若狭屋:はぁ、浜野先生の おしなですか……
      そうですねえ、今からの ご注文ですと……
      
      お渡しできるのが ――
      
      13年後になりますかねぇ。

    男:じゅうさんねんご!? ほんな殺生せっしょうな~!
     《じゅうさんねんご!? そんな殺生な~》
  
      どうか そんなこと おっしゃらんと……そこをなんとか……!
     《どうか そんなこと おっしゃらないで……そこをなんとか……!》
  
      まえどもも、このまま 手ぶらで帰るようなわけには いきまへんよってに……。
      《手前どもも、このまま手ぶらで帰るようなわけには いきませんので……》
  
      いえもう、どんなモンでも 構いまへんので!
      《いえもう、どんな物でも構いませんので!》
      
      習作しゅうさくやろうが そんじやろうが、矩随のりゆき先生の ったモンやったら、
      どんなモンでも 構いまへんので!
      《習作だろうが 彫り損じだろうが、矩随先生の彫った物でしたら、
       どんな物でも構いませんので!》

  若狭屋:ほう、どんなモノでも構わない。
      どんなモノでも構わないと おっしゃいましたね?
      
      では少々 お待ちください。(中座)
      
      
      (河童ダヌキを持って戻る)
      こちらなどは、いかがでございましょう。

    男:(受け取って)
      これは……またケッタイな もんでんなぁ……。
      《これは……また妙なものですなぁ……》
  
      これ……、何でっか?
      《これ……何ですか?》

  若狭屋:何に見えますか?

    男:そうでんなあ……。
      《そうですなあ……》
  
      頭に 皿があるところを 見ると カッパかいなぁと 思うんですが……
      下へ行くと 腹がポコンと出て 太い尻尾しっぽがあって、タヌキに見えまんなぁ……。
     《頭に皿があるところを見ると カッパかなぁと思うんですが……
       下へ行くと 腹がポコンと出て 太い尻尾があって、タヌキに見えますなぁ……》

  
      わか狭屋さやはん、これ、いったい 何でんねん?
     《若狭屋さん、これ、いったい 何ですか?》

  若狭屋:ふっふっふ、お客さん。
      これこそ、矩随のりゆき先生 しょ傑作けっさく・「河童かっぱダヌキ」でございます!

    男:ほう、さよか!ほて、これ、おいくらで?
     《ほう、そうですか!それで、これ、おいくらで?》

  若狭屋:500両です。

    男:ご、ごひゃくりょう!?

 


 

   語り: ―― とまあ、そんなわけで、矩随のりゆきは 見事、
      「名人」と呼ばれる職人に なりました。
      
      すえいたっては、その技量ぎりょうにおいて、
      父・矩康のりやすをも りょうしたとさえ 言われたそうでございます。
      
      
      (七五調)
      おこたらず かば せんの ても
      
      うしあゆみの よし おそくとも
      
      
      
      『はま矩随のりゆき』という お話でございました。(お辞儀)
  



おわり

その他の台本                 


参考にした落語口演の演者さん(敬称略)


立川志の輔
三遊亭圓楽(5代目)
古今亭志ん朝(3代目)
古今亭志ん生(5代目)
宝井琴調(4代目) ※講談
一龍斎貞花(5代目) ※講談


何かありましたら下記まで。
kurobekio@yahoo.co.jp

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