声劇台本 based on 落語

無精床ぶしょうどこ


 原 作:古典落語『無精床』
 台本化:くらしあんしん


  上演時間:約20~30分


【書き起こし人 註】

古典落語をベースにしていますが、あくまでも"声劇台本"として作成しています。
なるべく声劇として演りやすいように、元の落語に様々なアレンジを加えている場合があります。

アドリブ・口調変更・性別転換 等々OKです。



ご利用に際してのお願い等

・上演を公開される際は、観覧無料の媒体のみで行うようお願いします。
 観覧自体が無料であればかまいません。いわゆる「投げ銭システム」に代表されるような、リスナーから
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<登場人物>

・男(セリフ数:115)
 ?歳。
 行きつけの床屋が休みだったので、仕方なく隣町の床屋へ散髪をしに来た男。
 一人称は「俺」。
 ※「コンコン」という音を鳴らすシーンがあります(ひしゃくで木桶を叩く音です)。



店主(セリフ数:115)
 ?歳。
 床屋のマスター(店主)。
 めんどくさがりで 愛想も良くない。
 営業トークどころか、客に敬語すら使わない。
 一人称は「俺」。
 ※「コン!」という音を鳴らすシーンがあります(かみそりの背で客のおでこを叩く音です)





<配役>

・男:♂

店主:♂



【ちょっと難しい言葉】※クリックすると開いたり閉じたりします(ブラウザによっては機能しません)
  • 人形師(にんぎょうし)
    人形を作る職人。

  • ボウフラ
    蚊の幼虫。水中にすみ、体は短い棒状で、くねくねと運動し浮き沈みする。

  • 法名(ほうみょう)
    ここでは、僧侶としての名前。




ここから本編


 男:(歩いている。わりと長い距離を歩いてきたようで、お疲れ気味)
   (ため息)
   まったく、今日に限って 行きつけの床屋とこやが休みなんざ、ツイてねえなぁ。
   おかげで 隣町となりまちまで来るハメになっちまった。
   
   えーと、聞くところによると、この辺りに 1軒あるって話なんだが……。
   しっかし なんもえ所だなぁ。ホントに床屋なんて あんのか……?
   
   (1軒ポツンと建物がある)
   ん……?なんかポツンと1軒あるなぁ……あれか……?
   
   (その建物の前に来る)
   お、どうやら ここらしいな。
   (ずいぶんと さびれた感じ)
   それにしても、小汚こぎたねえ店だなぁ。壁なんかクモの巣だらけじゃねえか。
   ガラスが汚れてて 中の様子も よく見えねえけど……
   なんだか静まり返ってんなぁ……。ちゃんと営業してんのかぁ?
   ま、いいや、入るだけ入ってみるか。
   (入る)
   お邪魔しますよー。(ホコリっぽい)ウプッ、ゴホッゴホッ。
   なんだよ、中も汚ねえなあ、ホコリだらけじゃねえか。掃除もロクにしてねえのかよ。
   (店内を見回す)
   えーと……
   
   (奥のほうに店主らしき男が椅子に腰かけている)
   お、あれが店主てんしゅみてえだな。ああ、よかった、やってるみてえだ。
   (店主に)すいませーん。

店主(気付いていないのか、タバコを吸っている)
   すぱすぱ、ふぅーっ。

 男:(独白)
   なんだよ、客が来てるってのに、椅子いすに座って タバコ吸って ボーッとして。
   
   (店主に)
   すいませーん。あのー、すいませーん。

店主(気付いた様子)
   ん?何だ?

 男:あ、どうも。今、いいスか?

店主はええよ。まだ昼間じゃねえか。
   晩飯ばんめし 食い終わって、あまりが出たら くれてやるから、来るなら 夜に来な。

 男:ちょちょちょ、俺ぁ 物乞ものごいじゃねえよ。

店主:なんだよ、物乞ものごいじゃねえのか。じゃ何だよ?

 男:何だよって……、やってもらいに来たんだよ。
   すぐ やってくれるかい?

店主:何を?

 男:何をって、頭を。

店主:どこへ?

 男:いやいや、頭を どっかへ持ってってくれって言ってんじゃないよ。
   頭を こしらえてくれって言ってんだよ。

店主:こしらえる?そりゃ無理だ。
   この先に 人形師にんぎょうしの店があるから、そこに頼んでくんな。

 男:人形の頭をこしらえてくれってんじゃねえよ。
   俺の頭を 刈ってくれってんだよ。

店主:不景気になると ワケ分かんねえヤツが 出てくるなぁ……。
   なんだ?かねえからって、てめえの頭 売りに来たのか?いらねえよ そんなもん。

 男:そうじゃねえよ!刈るんだよ!

店主かまで?

 男:こええよ!ハサミかバリカンにしてくれよ!
   
   分かんねえ人だなぁ……。ここ、床屋なんだろ?

店主八百屋やおやに見えるか?

 男:いや、見えねえけど……。
   だったら、早いとこ やってくれよ。

店主:何を?

 男:だから、散髪だよ!
   髪切って ヒゲ 当たって、男前にしてくれってんだよ!

店主:無茶言うなよ。その ツラ 男前にしようと思ったら、
   この先の 整形せいけい外科げか 行かなきゃ無理だ。

 男:そうじゃねえよ!別に 顔の造作ぞうさくを男前にしろってんじゃねえよ。
   よく言うだろ?「床屋 行って 男前にしてもらう」って。
   言葉のアヤだよ。慣用表現かんようひょうげんだよ。
   髪切って ヒゲ 当たってくれりゃあ、それでいいんだよ。

店主:だよなぁ。そのツラは、もう手のほどこしようがえよなぁ。

 男:うるせえよ!大きなお世話だ!
   で、今 いてんの?

店主:あのねぇ おまえさん、目ェ 付いてんのかい?
   客がいるように見えるか?

 男:いや 見えねえけどよぉ。
   繁盛はんじょうしてねえくせに、なんで そんなえらそうなんだよ……。
   いてんなら、はええとこ、髪切って ヒゲたってくれよ。

店主――さっきから聞いてりゃあ おまえさん、まるで 客みてえなこと言うなぁ。

 男:客だよ!

店主(疑わしげに)
   客?ホントか?かね 払うのか?

 男:払うよ!当たり前だろ!

店主:なんだ、客だったのか。
   だったら客らしくしたらどうだ?
   入口でペコペコ「お邪魔します」だの「すいません」だの言ってるから、
   物乞ものごいかと思うじゃねえか。
   
   あのなぁ、客なら客らしく、堂々と入って来て 黙って座りゃあ いいんだよ。
   そうすりゃ こっちも 黙って仕事に掛かるんだ。
   余計な事 ゴチャゴチャ言ってるから まぎらわしいんだよ。

 男:え、俺が悪いの……?
   なんで床屋に来て 小言こごと われなきゃなんねえんだよ……。
   
   分かったよ、座りゃ いいんだね?
   (施術用の椅子(バーバーチェアと言うらしい)に座る)
   よいしょ。
   
   ほら、座ったぜ?
   さっさと ぬの 掛けてくれよ。

店主:あん?

 男:いや だから、体に ぬのを掛けてくれってんだよ。

店主:寒いのか?

 男:そうじゃねえよ!
   始める前に 掛けるぬの、あんだろ?

店主えよ そんなもん。

 男:え、えの!? あるだろ普通!
   だって 切ったがバラバラ落ちるじゃねえか!

店主:落ちたって いいじゃねえか。
   あとでいときゃ済む話だ。

 男:床に落ちるのは どうでもいいんだよ!
   俺の服にも落ちるだろ!

店主:それが どうしたってんだよ。
   ホコリみてえなもんなんだから、あとで パンパン はたいときゃ 落ちるじゃねえか。

 男:いや そうかもしれねえけど……。
   
   分かったよ、ぬのは もういいよ。
   じゃ さっさと 頭 らしてくれ。

店主:あん?

 男:だから、頭をらしてくれってんだよ。
   
   え?さすがに 頭 らしてから切るよね?

店主:そりゃ そうだな。

 男:じゃ早く らしてくれよ。

店主:なんで俺が?

 男:は?なんで俺がって……
   じゃ誰がやんの?

店主:おまえさんが 自分で やんなよ。

 男:ハァ!? 俺 客だよ!?

店主:客だからって 甘えてちゃ いけねえよ。
   水で 頭 らすくらい、自分で できんだろ?

 男:いやいやいや、俺、おまえさんに かね 払うんだよ!?

店主:あのねえ お客人きゃくじん
   おまえさんには、自分で 髪を切ったり刈ったりする技術がえ。
   だから技術のある俺が、おまえさんの髪を 切ったり 刈ったりしてやる。
   おまえさんは その技術に かねを出すわけだろ?
   
   頭 らすくらい、おまえさんでも できる。
   つまり 俺の技術は関係ねえ。
   てことは、かねをもらう筋合すじあいのえことだ。
   かねをもらう筋合すじあいがえってことは、
   わざわざ やってやる筋合すじあいもえ。
   そうだろ?

 男:そ、そうかなぁ……?
   ただの無精ぶしょうじゃねえの……?
   
   普通は 床屋の旦那だんなが やってくれるもんだと思うけどなぁ……。

店主:うるせえ客だなぁ。
   
   そんなにグチグチ言うなら、隣町となりまちの床屋にでも 行きゃいいじゃねえか。

 男:そこが休みだったから、仕方なく ここ来たんだよ。

店主:あ、そう。じゃ 反対はんたいどなりまちの床屋 行きゃいいじゃねえか。

 男:イヤだよ。ここ来るのに さんざん歩いて来たんだ。
   いまさら 別の床屋 行く元気なんざえよ。
   
   (ため息)
   分かったよ、自分でやりゃあいいんだろ?
   そこの水道 使えばいいのかい?

店主:ダメだよ。

 男:なんでだよ!

店主:ムダだからだよ。

 男:ムダじゃねえだろ、頭 らすための水なんだから!
   ちょっとの水道代ケチってんじゃねえよ!

店主:そうじゃねえよ。
   
   水道なんざ使おうとしてるのがムダなんだよ。

 男:どういうことだよ。

店主:出ねえんだよ。

 男:え?

店主蛇口じゃぐちひねったって 水 出ねえんだよ。
   
   な?ムダだろ?

 男:いやいや、え?なんで水 出ねえの?

店主:止められてるからだよ。

 男:え?水道 止められてんの!?

店主:だから そう言ってるじゃねえか。

 男:なんで止められてんの!?

店主:水道代 払ってねえからだよ。

 男:いや 払えよ!

店主:払えるもんなら 払ってるよ。

 男:え、払えねえの!?

店主:払えねえから、払ってねえんだよ。

 男:なんで!?そんなに経営 苦しいの!?

店主:あのねえ、ホントに目ぇ付いてんのか?
   この真っ昼間に、客が おまえさんだけなんだよ?
   繁盛はんじょうしてるように見える?え?

 男:だから なんでそんなえらそうに言えるんだよ……。
   
   たしかに つぶれてねえのが不思議なくらいだけどよぉ……。
   
   それじゃあ、水は どうすりゃいいんだよ。

店主:おまえさんの足元のおけに 入ってんだろ。

 男:(右ななめ前らへんの床に木桶がある)
   え?ああ、このおけ
   いや、置いてあるのは 気付いてたよ?
   たしかに水も入ってるけど。
   
   え、これ、頭 らす用だったの?
   俺 てっきり、雨漏あまもりを受けるためのおけだと思ってたんだけど、違うの?

店主:いいから 早く やんなよ。

 男:いや、早くやれったってさぁ……。
   この水、なんかにごってねえか?
   これ、いつから入れてある水なんだい?

店主:さあなぁ……。
   
   俺が この店を持って すぐぐらいだから――

 男:え?え!?

店主:今年で23年目か――

 男:ちょちょちょちょ!23年!?23年前の水!?
   なんで そんな水が あるんだよ!?

店主:店 建てた頃は、水道なんざ 引いてなかったからな。

 男:いや どっかのタイミングで 水道 引いたんだろ?
   なんで そん時に 捨てねえんだよ!

店主:面倒じゃねえか。
   あって困るもんでもえしよ。

 男:どんだけ無精ぶしょうなんだよ。

店主:うるせえなぁ。
   
   おかげで 水道 止められた今でも 水に困らねえんだから、
   むしろファインプレーだろ。

 男:なんで そんな前向きなんだよ……。
   
   だって23年前の水だよ?
   大丈夫なの?そんな水。

店主:大丈夫だろ、飲むってワケでもえんだから。

 男:いや まあ 飲みゃしねえけど……。
   それにしたってさぁ……。

店主:早く やんなよ。

 男:(困惑)ええ~……。
   
   わ、分かったよ……。それじゃ……
   
   (桶をのぞき込む)
   (ドブみたいな臭いがする)
   ウ!くっせ!
   
   (店主に)
   ちょちょちょちょ、旦那だんな!この水、すげえ くせえよ!やべえよ!

店主:何が やべえんだよ。
   においなんざ関係ねえだろ。
   髪がれりゃいいんだから。

 男:いやいやいやいや!だって!
   ドブ川みたいなニオイするよ!?

店主:だから なんだよ。
   それぐらいで ギャーギャー騒ぐんじゃねえよ。
   
   だいたいねぇ、においってのは 上に向かって のぼるもんなんだ。
   てことは、髪 切ってる間 くせえと感じるのは むしろ こっちなんだよ。そうだろ?

 男:いや、だったら キレイな水に 代えりゃいいじゃねえか。
   そうすりゃ くせえの我慢せずに 仕事できるんだろ?

店主:別に、俺はもう慣れてるからな。
   特に我慢するほどでもえよ。
   
   それに面倒なんだよ。
   キレイな水に代えるとなったら、手桶ておけ 持って
   隣の豆腐屋に 水 もらいに行かなきゃならねぇ。

 男:ホント無精ぶしょうだな……。
   
   いいよ、じゃ水くらい 俺がもらって来てやるよ。

店主:ほう、そうかい?

 男:たかだか隣の豆腐屋だろ?
   ここ出て どっちだい?

店主:出て 左向いて 2キロほど行ったとこだ。

 男:え!?に、2キロ!?

店主:ああ ついでに 豆腐2丁と 油揚あぶらあげ1枚 買って来てくれ。

 男:待て待て待て!隣が2キロも先かよ!
   それに なんで俺が 買い出しまで しなきゃなんねえんだよ!

店主:もののついでじゃねえか。

 男:ふざけんな!俺は客だぞ!
   使い走りじゃねえんだよ!

店主:分かったよ。じゃ水だけでいいよ。

 男:いや行かねえよ!
   2キロも歩いてられっか!

店主:あ、そう。じゃ さっさと その水で 頭 らしなよ。

 男:(ため息)
   分かったよ……。
   
   (手を浸けようとする)
   あー くっせ……
   
   (よく見ると水面付近で何か動いている)
   ん……?なんか動いてんな……。なんだ……?
   
   (ボウフラだ。10匹はいる)
   げっ!!ちょちょちょちょ 旦那だんな!ボウフラがいてるよ!

店主:そうだよ。かわいいだろ。

 男:かわいくねえよ!
   なんとか してくれよ!

店主:大丈夫だよ。食いつきゃしねえから。

 男:いや 食いつきゃしねえだろうけど……。
   気持ちりいじゃねえか。これじゃ 水 すくえねえよ。

店主:だらしねえなぁ。
   
   じゃ、そこの柄杓ひしゃくで、おけふち、コンコンって叩いてみな。
   そうすりゃ そいつら、底のほうへもぐっていくから。

 男:ホントかよ?

店主:いいから やってみなって。

 男:分かったよ……。
   
   (柄杓で桶の縁を叩く)<コンコン>
   
   (するとボウフラたちがスーっと沈んでいく)
   あ、ホントだ!もぐってく!

店主:そこまで仕込むのに苦労したんだよ。

 男:仕込んだの!? わざわざ!?

店主:ホラ、そいつらがもぐってるすきに、上の方の水すくって 頭 らしなよ。

 男:お、おう……。
   
   (水に手をつける)
   よいしょ……。
   
   うわ~っ、なんか生ぬるくて ヌルヌルしてる。気持ちりぃ~。

店主:ほら早く。

 男:わ、分かってるよぉ。
   
   (頭を濡らす)
   よいしょ、よいしょ。
   ああ、頭が気持ちりぃ……。
   
   (店主に)
   ほら、らしたぜ。
   いつまでも座って タバコ吸ってねえで、仕事にかかってくれ。

店主:あのねぇ お客人きゃくじん。おまえさん、水 つけ過ぎなんだよ。
   ビッチョビチョじゃねえか。
   それじゃ かえって切りにくいんだよ。

 男:知らねえよそんなこと。
   だったら 初めっから 旦那だんながやってくれりゃ良かったじゃねえか。
   ビチョビチョで切りにくいんなら、手ぬぐいで チョチョっと拭いてくれよ。

店主えよ そんなもん。

 男:手ぬぐいもえの!?

店主:しょうがねえなあ。ま、いいや。
   じゃ、乾くのを待つ間、先に 顔剃かおぞり やっちまうか。

 男:なんでも いいから 早くやってくれよ。

店主:まあ慌てんな。
   顔剃かおぞりは 見習いの小僧にやらせるから。

 男:え?見習いの小僧なんて いんのか?

店主:ああ。奥で稽古させてんだ。
   
   (奥へ向けて)
   オーイ、吉公キチこう!ちょっと来ーい!
   
   (吉公 来る。10才くらい)
   お、来たな。
   (客を指して 吉公に)
   オウ、この人の 顔剃かおぞり やってみな。

 男:(吉公を見て)
   あ、この子が 見習いの?へえ。
   
   (店主に)
   ねえ旦那だんな、この子、見たとこ10才くらいだけど、大丈夫なの?
   ちゃんと できんの?

店主:大丈夫 大丈夫。ウチに見習いに来て3年。
   しっかり稽古は 積ませてあるから。

 男:あ、そう。じゃあ まあ よろしく。

店主(吉公に)
   よかったなぁ吉公キチこう、ようやく生き物で やれるな。

 男:待って待って待って!聞き捨てならない!
   「ようやく生き物で やれる」って どういうこと!?

店主:ああ、こいつがウチに来て以来、初めての客なんだよ おまえさんが。

 男:え!?初めて!?
   この3年間で 初めて!?

店主:ああ。

 男:そんなに客 来てなかったの!?
   もう商売 成り立ってねえじゃねえか!
   なんで そんな状態で 見習いなんか やとってんだよ!

店主やとってねえよ。給金きゅうきん 払ってるワケじゃねえし。
   「床屋の修行したい」っつーから、「給金きゅうきんなんざ出せねえぞ」っつったら、
   「それでいい」っつーから、置いてやってるだけだ。

 男:よく こんな店で 修行する気になるな……。

店主:やっぱり実際に 生身なまみの人間相手に やってみねえと、
   ウデは上がらねえからな。いやぁ いい機会だ。

 男:待て待て!
   
   じゃあ稽古は 何で やってたんだよ!

店主:ヤカンの表面ひょうめんを 顔に 見立みたてて、剃刀かみそりでガリガリやらせてた。

 男:そんなんで稽古になんの!?

店主:だから その成果を 実地じっちに試す いい機会だって言ってんだよ。

 男:ちょ待ってくれよ!それじゃ 俺、実験台じっけんだいじゃねえか!
   ヤだよ!旦那だんなが やってくれよ!

店主:あのねえ。考えてもみなよ。
   例えば どんなにウデのいい外科医げかいでも、最初から名医めいいってワケじゃえ。
   「初めて手術をした日」ってのが 必ずあるんだよ。
   そいつに経験がえからって、毎度ベテランが やってたんじゃあ、
   いつになっても できるようにならねえ。
   そんな事してたら、そのうち世の中から 医者がいなくなっちまうぜ?そうだろ?
   
   床屋だって同じだよ。
   「初めて人間の顔をる日」ってのが 必ずある。当たり前の話だろ?

 男:いや 言ってる事は 分かるけどよぉ……。
   
   だって、今までの練習台、ヤカンなんだろ?
   ヤカンから いきなり人間てのは、不安だよぉ……。

店主:心配いらねえよ。顔剃かおぞりなんざ 難しいモンでもえし。
   だいたい、医者と違って 腹 ひらくわけでもえんだから。

 男:まぁ そうかもしれねえけど……

店主:だったら頼むよ。
   コイツに 経験 積ませてやってくんな。

 男:――わ、分かったよぉ……

店主(客に)
   よし、そいじゃあ、背もたれに しっかり もたれて、
   アゴ上げて ちょいとうえ向いてくんな。
   
   (吉公に)
   オウ吉公キチこう剃刀かみそり 持って、位置に付け。
   
   (吉公、客のかたわらに立つ)
   ん、よし。

 男:(吉公に。不安そうに)
   ああ、小僧さん……お手柔らかに 頼むぜ……?

店主(客に)
   じゃあ お客人きゃくじんよぉ、目ぇつぶってやってくんな。

 男:お、おう……(目を閉じる)

店主(吉公に)
   よーし吉公キチこう、まずはひたいから 当たってけ。

 男:(不安。誰にともなく)
   うう……頼むぜぇ……。
   
   (意外と 全然 痛くない)
   ん――
   
   あれ――
   
   お、けっこう上手うまいんじゃねえか?
   当て方が やわらけえから、ちっとも痛くねえ。
   
   やってんのか やってねえのか 分からねえくらいだ。

店主:まだ やってねえよ。

 男:やってねえのかよ!

店主(吉公を叱咤)
   どうした 吉公キチこう。早く やらねえか。
   
   ん?どうした?
   剃刀かみそり 持つ手が震えてんじゃねえか。
   
   なんだよ、初めて人間の顔 るから、緊張してんのか。
   だらしねえヤツだなぁ。
   
   オウ 吉公キチこう!ビビってねえで、思い切って やれ!
   血が出ようが 肉が えぐれようが、てめえの顔じゃねえんだから、いたくもかゆくもねえだろ!

 男:待て待て待て待て!何てこと言うんだ!
   
   おい旦那だんな!変な激励げきれい仕方しかた やめてくれよ!
   肉 えぐられて たまるか!

店主:大丈夫だよ。ホントに 肉えぐれってワケじゃねえよ。心意気の話だよ。
   技術は ちゃんと仕込んであるから 心配すんなって。

 男:ホントかよ……こええんだけど……

店主:大丈夫 大丈夫。
   ほら、目ぇつぶって。
   でないと終わらねえよ?

 男:わ、分かったよ……。
   (目を閉じる)
   頼むぜ……?

店主(吉公に)ほら吉公キチこう、やれ。

 男:(吉公による顔剃かおぞりが始まる。痛い)
   てっ!
   あてっ!
   ちょ、てっ!
   ててっ!
   ちょ、いたいって!
   いたいってば!
   オイいてえよ!いてえって!!

店主(吉公に)
   オイ吉公キチこう!やめろ!
   いったん 手ぇめろ!

 男:(吉公の手が止まる)
   いててて………。
   あァ~痛かったぁ……。

店主(客に)
   おう、すまなかったなぁ お客人きゃくじん
   
   (吉公に)
   馬鹿野郎!あれほど言っておいたろうが!
   客が3回「いてえ」って言ったら やめろって!

 男:1回目で やめてくんない!?
   ていうか 痛く しないでくんない!?
   めちゃくちゃ痛かったよ!?
   もう旦那だんなが やってくれよぉ!

店主:しょうがねえなぁ。
   
   (吉公に)
   オウ 吉公キチこう、俺が 手本 見せてやるから、お前は見てろ、いいな?
   ホラ、剃刀かみそり 貸してみろ。
   
   (剃刀を受け取る。刃がギザギザだ)
   ん?
   オイオイ吉公キチこう、お前 こんな剃刀かみそりで やってたのか?
   馬鹿野郎、こんなんで れるワケねえだろ?
   こいつは さっき、俺が 下駄げた けずるのに使ってた剃刀かみそりじゃねえか。

 男:オイオイ!そんなんで 人の顔 ガリガリやってたのかよ!

店主:まあまあまあ。
   ガキのやったことだ。大目おおめに見てやってくんな。
   こっからは 俺がやってやるから。

 男:最初っから あんたが やっといてくれよぉ……

店主(客に)
   ホラホラ、目ぇつぶって。
   
   (吉公に)
   いいか?吉公キチこう。よく見てろよ?
   
   (剃り始める)
   ほーら、こんな具合にやるんだ。
   こうすりゃあ、スムーズにれるんだよ。
   お前は を立てすぎるんだよ。
   を立てすぎるとな、こうやって 引っかかるんだよ。

 男:てっ!

店主(さらに続ける。吉公に)
   な?お前のは こうなってんだよ。
   ホラ、こんなんじゃ どうやったって 引っかかんだろ?

 男:てっ!いたいって!

店主:で、客が3回 いたがったら やめる。

 男:1回で やめろよ!
   じゃなくて 痛くすんなよ!
   どういうつもりなんだよ!

店主:悪い見本 見せてたんだよ。

 男:人の顔で 悪い見本 見せてんじゃねえよ!いてえんだよ!

店主:おまえさんねぇ、ちょっとぐらい辛抱しんぼうしなよ。
   何べんも何べんも いていてえって。初夜しょやかよ。

 男:やめろ!子供の前だぞ!

店主:さて、悪い見本は もういいだろ。
   こっからは また ちゃんとやってやるから。
   
   (吉公に)
   オウ吉公キチこう、俺の手元てもと よく見とけよ。
   
   (剃り始める)
   ほら、こうやってを寝かせて 軽~く 当ててやりゃあ、スーッとれるんだ。な?
   
   (不意に吉公がその場を離れてどこかへ行こうとする)
   ん?おい吉公キチこう、どこいくんだ?見とけって言ってんだろ?
   
   (吉公、窓際へ行く)
   (吉公に)
   窓際まどぎわなんか行って どうすんだ?
   
   え?チンドン屋が来てる?
   馬鹿野郎、そんなもん見てねえで、戻って来い。
   チンドン屋なんざ いつでも見れるだろうが。
   客は 次 いつ来るか分からねえんだぞ?
   
   (吉公、チンドン屋に夢中なのか、戻って来ない)
   聞かねえヤロウだな……。
   
   コラ!吉公キチこう!聞いてんのか!<コン!>(←剃刀の背で客の額を叩く音)

 男:でッ!

店主(吉公に)
   オイ吉公キチこう!戻って来い!
   
   戻って来いって言ってんだよ!<コン!>

 男:でッ!

店主(吉公に)
   オイ吉公キチこう!いい加減にしろよ!
   
   戻って来いって言ってんだよ!<コン!>

 男:でッ!
   
   待て待て待て待て!
   ちょっと!
   小僧に小言こごと ってんのに、なんで俺のアタマ叩くんだよ!

店主(客に)
   いや、こっからじゃ手ェ伸ばしても アイツの頭に届かねえから、
   じゃあ もう近場ちかばで済まそうと思って。

 男:なんでだよ!どこまで無精ぶしょうなんだよ!

店主:しっかしホントに 言うこと聞かねえヤロウだなあ。
   
   (吉公に)
   オイ吉公キチこう!もういいだろ!戻って来い!戻れ!
   てめえ聞こえねえのか!
   
   戻れって言ってんだよ!!<コン!!>

 男:(激痛)っっで!!って!って!
   
   ちょちょちょちょ!今のメチャクチャ痛かったんだけど!!

店主:あ。
   
   りいな お客人きゃくじん
   間違えて の方で殴っちまった。

 男:おいいいい!!なんてこと すんだよ!!って~!!
   (額を触ると 手に血がついた)
   あ~っ!血が出てる!
   ちょっと!血が出てるよ!!

店主:見りゃ分かるよ。

 男:なんで落ち着いてんの!?
   血が出てんだよ!?ケガしてんだよ!?

店主:大丈夫だよ。うほどの傷じゃねえから。

 男:傷の深さの問題じゃねえんだよ!
   あのねぇ、これ立派な犯罪だよ!?
   傷害罪しょうがいざいだよ!?

店主:違うよ。業務上ぎょうむじょう 過失かしつ傷害しょうがいだよ。

 男:冷静に訂正してくるんじゃないよ。
   なんで床屋が そんな知識 持ってんだよ。

店主:法学部出身だからな。

 男:法学部 出て、なんで床屋なんて やってんだよ。

店主:んなもん、俺の自由じゃねえか。

 男:そりゃそうだけどよぉ……。
   
   とにかく!
   俺ぁ アンタのせいでケガしたんだ!
   どうにかしてくれよ この傷!

店主:分かったよ。
   
   それじゃあ、顔とヒゲだけじゃなく、
   頭の毛も全部 剃ってやろうじゃねえか。

 男:はぁ!?頭の毛も全部 剃る!?
   ツルッパゲにする気か!?

店主:そうだよ。
   
   ついでに法名ほうみょうでも名乗って、坊さんに なっちまうといい。

 男:冗談じゃねえ!
   
   俺ぁ 散髪しに来たんだ!
   出家しゅっけしに来たんじゃねえんだよ!

店主:だって、その傷 どうにかしてほしいんだろ?

 男:は?出家しゅっけすりゃあ、どうにかなるってのか?

店主:そうだよ。

 男:なんでだよ?

店主:考えてもみろ。
   
   坊主になりゃあ、毛が無くて(怪我 無くて) めでたしめでたしだ。
  



おわり

その他の台本                 


参考にした落語口演の演者さん(敬称略)


三遊亭歌武蔵
春風亭一之輔
古今亭志ん朝(3代目)
古今亭志ん生(5代目)
柳家小さん(5代目)
三遊亭圓生(6代目)
桂文治(10代目)


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