声劇台本 based on 落語

鰍沢かじかざわ — 声劇ver. —


 原 作:古典落語『鰍沢』
 台本化:くらしあんしん


  上演時間:約40分


【書き起こし人 註】

古典落語をベースにしていますが、あくまでも"声劇台本"として作成しています。
なるべく声劇として演りやすいように、元の落語に様々なアレンジを加えている場合があります。

アドリブ・口調変更・性別転換 等々OKです。



ご利用に際してのお願い等

・上演を公開される際は、観覧無料の媒体のみで行うようお願いします。
 観覧自体が無料であればかまいません。いわゆる「投げ銭システム」に代表されるような、リスナーから
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<登場人物>

大川屋おおかわや 新助しんすけ(セリフ数:63)
 ?歳。20代なかば~50代くらいかな。
 江戸の商人。
 日蓮宗を熱心に信仰している。
 商用で甲州に来たついでに日蓮宗の本山に参詣しようとしていたところ、
 道に迷って吹雪に遭い、命からがら おくまの家に身を寄せる。
 信仰に篤く、誠実で朴訥な男。
 温厚で礼儀正しく、言葉遣いも丁寧。
 一人称は「手前(てまえ)」。独白では「俺」も 。



おくま
(セリフ数:55)
 ?歳。語り(というか新助?)の見立てでは「28、9歳」。
 昔は「月乃兎(つきのと)」という名の花魁だった。
 心中未遂→吉原脱走を経て、現在は甲州の山奥で夫の伝三郎と暮らしている。
 さばさばした感じだが、元花魁だけあって、どことなく あだっぽい色気もある。かも。
 道に迷った新助を 親切心から家に上げてやるが、新助の所持する大金を見て
 魔が差し、その金を奪おうと画策する。
 一人称は「あたし」。



語り
(セリフ数:35)
 ほぼ全く笑いどころのない話なので、あまり軽妙でないほうがいいかも。


伝三郎でんざぶろう
(セリフ数:6)
  ?歳。
 おくまの夫。
 口調はわりと ぞんざい。





<配役>

・新助:♂

おくま:♀

語り伝三郎:♂

 ※「新助」と「伝三郎」を男性が兼ね、「語り」を女性が演れば、♂1:♀2でできなくもありません。



【ちょっと難しい言葉】※クリックすると開いたり閉じたりします(ブラウザによっては機能しません)
  • 遮二無二(しゃにむに)
    後先を考えずにがむしゃらに行動すること。

  • お祖師様(おそし さま)
    その宗派を初めて開いた人(祖師)を敬う言い方。ここでは日蓮宗を開いた「日蓮」のこと。

  • お題目(おだいもく)
    日蓮宗や法華経系の宗派などで勤行の際に唱えられる「南無妙法蓮華経」の文句。

  • 旅籠(はたご)
    宿屋。旅館。

  • あばら家(あばらや)
    1粗末な家。

  • 刻限(こくげん)
    とき。時刻。

  • 身延(みのぶ)
    山梨県にある地名だが、ここでは「身延山(みのぶさん)」のこと。日蓮宗の総本山がある。

  • 回し合羽(まわしがっぱ)
    身体に巻くようにして羽織る袖なしの合羽。「丸合羽」とも。

  • 上総戸(かずさど)
    粗末な出来合いの雨戸。

  • 昌福寺(しょうふくじ)
    山梨県の富士川町青柳町にある日蓮宗の寺。山号は「壽命山」。

  • 小室山妙法寺(こむろさん みょうほうじ)
    山梨県にある日蓮宗の本山。毒消しの護符が有名。

  • 法論石(ほうろんせき)
    山梨県の懸腰寺に安置されている石。日蓮がその石に座って 恵朝という修験者と問答を行ったという故事がある。

  • 羅宇の煙管(ラオの きせる)
    吸い口と雁首をつなぐ管が竹でできている煙管。「ラオ」は「ラオス」のことらしい。

  • 火影(ほかげ)
    火の光。

  • はかりごと
    計略。

  • 柔らか物(やわらかもの)
    手触りの柔らかい織物。

  • 茶弁慶(ちゃべんけい)
    紺と茶色の2色を使った弁慶じま(チェックみたいなしまもよう)。

  • ねんねこ半纏(ねんねこばんてん)
    幼児を背負った上から羽織れる半纏。

  • 陋屋(ろうおく)
    狭くてみすぼらしい家。

  • 二の酉(にのとり)
    11月の2回目の酉の日。

  • 身代(しんだい)
    財産。資産。

  • 二の酉(にのとり)
    11月の2回目の酉の日。

  • 生薬屋(きぐすりや)
    生薬(しょうやく)を売る商売。要は薬屋。

  • 悋気(りんき)
    嫉妬。やきもち。

  • 面体(めんてい)
    顔かたち。顔つき。

  • 胴巻(どうまき)
    金銭などを入れて腹に巻きつける帯状の袋。

  • 燗鍋(かんなべ)
    酒を温めるための鍋。

  • 自在鉤(じざいかぎ)
    囲炉裏などの上につり下げ、それに掛けた鍋などと火との距離を自由に調節できるようにした鉤。

  • 早鐘(はやがね)
    火事など、火急の事件を知らせるために、激しく続けて打ち鳴らす鐘。

  • 大儀(たいぎ)
    面倒で、おっくうなこと。

  • 次の間(つぎのま)
    座敷の隣についている小部屋。ここでは「隣の部屋」くらいの意味。

  • 粗朶(そだ)
    木の枝を切り取ったもの。たきぎ等に使う。

  • 雪庇(せっぴ)
    雪が積もってひさしのように突き出たもの。

  • 舫う(もやう)
    船を岸などにつなぎとめておくこと。

  • 腰だめ(こしだめ)
    銃を腰に当ててだいたいのねらいをつけてうつこと。





ここから本編




 語り:ある冬の日のこと。
    
    激しい吹雪ふぶきうずを巻く 雪深ゆきぶかい山の中を、
    ひとりの男が、息もえに 歩いていた。

 新助:(想像を絶する寒さ。生きた心地もしない)
    (歯の根も合わないほどガタガタ震えながら)
    ハァ、ハァ……
    うう、さ、寒い……。
    
    こんなに ひどい雪になるとは 思わなかった……。
    こ、このままじゃあ、こごえ死んでしまう……。

 語り:山の吹雪ふぶきの すさまじさは 尋常じんじょうではない。
    ビュウビュウと荒れ狂う風に乗った 雪のちぎれ、、、が、
    正面から叩きつけてくる。
    かさをかぶっていようが おかまいなし、その隙間すきまから
    容赦ようしゃなく雪が 顔に へばり付いてくる。
    ほうっておけば、たちどころに 鼻も口も 雪におおわれ、息ができなくなる。
    
    
    男は 道に迷っていた。
    
    冷たさのあまり もう ほとんど感覚の無くなった手で、
    しつこく顔に 貼りつく雪を 払いのけ 払いのけ、遮二しゃに無二むに 歩いていた。

 新助:(あまりの寒さにガタガタ震えながら)
    ハァ、ハァ……
    お、お祖師そしさま、どうか、お助けください。
    (一心に祈る)
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……

 語り:男がとなえているのは、法華ほけきょうの「お題目だいもく」。
    「お祖師そしさま」とは、日蓮宗にちれんしゅう開祖かいそ日蓮にちれん聖人しょうにんのことである。
    
    男は父祖ふそ代々だいだい、熱心に日蓮宗にちれんしゅう信仰しんこうしており、
    窮地きゅうちに救いを求めるおりにも、また 幸運に感謝をしめおりにも、
    自然と この お題目だいもくが 口をついて出るのであった。

 新助:(あまりの寒さにガタガタ震えながら)
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……
    
    (日が暮れかかってきたようだ)
    ま、まずい、あ、あたりが暗くなってきた……。
    こ、こんな所じゃ、野宿もできない……。
    ど、どこかに、は、旅籠はたごでも 無いものか……。
    
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……
    
    (行く先に うっすらと 建物らしきものが見える)
    ――
    あ、あれは――

 語り:必死のいのりが通じたのか――
    
    吹き付ける雪にさえぎられて 白い幕でおおわれたような視界の中、
    遠くに うっすらと、かりらしきものが見えた。

 新助:(あまりの寒さにガタガタ震えながら)
    あ、あれは――
    人のうち――!?

 語り:絶望の中に 一筋ひとすじ光明こうみょうを見た男、
    最後の力を ふりしぼり、
    かりの見えるほうへと 一心に歩き続けた。
    
    やがて――

 新助:(人家の前。寒さと疲労で息も絶え絶え)
    ハァ、ハァ……。
    
    うちだ……!
    人のうちだ……!

 語りのきかたむき、壁板かべいたも腐りかけた 粗末そまつな あばらではあったが、
    男にとっては まさに地獄じごくほとけに会った心地ここちだった。

 新助:(戸板をドンドンと叩いて)
    ご、ごめんくださいまし!ごめんくださいまし!

おくま(独白)
    あら?誰だい こんな刻限こくげんに。
    ウチの人なら 勝手に開けて入って来るだろうし……。
    
    (戸の外に向けて)
    はーい!どなたー?

 新助:(ガタガタ震えながら)
    た、旅の者でございます。
    み、道に迷って、吹雪ふぶきいまして。
    す、少しの間で かまいません、
    ゆ、雪を、しのがせてもらえませんでしょうか?

おくま:ああ、じゃ すぐ開けますから。
    
    (表戸を開ける)
    
    (雪まみれで憔悴しきった男と対面)
    あらまあ、ずいぶん こっぴどく降られた様子ねぇ。

 新助:(ガタガタ震えながら)
    は、はい。
    
    手前てまえ、江戸から出て来て、身延みのぶへ お参りに行く途中だったんですが、
    道に迷ってしまいまして……。
    
    あ、あの……、鰍沢かじかざわへは、
    どのように行けばよいのでしょうか……?

おくま鰍沢かじかざわ……?
    さあねぇ……

 新助:(ガタガタ震えながら)
    お分かりになりませんか……困ったな……。
    
    では あの、この近くに、旅籠はたごか何か、ありませんでしょうか……?

おくま:あいにく、ここは 山家やまが一軒家いっけんやでねぇ、
    里方さとかたへ出るには ずいぶん歩かなきゃならないのよ。
    
    (男の肩越しに外の荒れ模様を見て)
    そうさねぇ……この雪じゃあ、たとえ近場ちかばだって、
    山に慣れた者でもなけりゃ 出かけて行くのは危ないからねぇ。
    
    ま、ごらんのとおりのボロだけどさ、
    よかったら お上がんなさいな。

 新助:(ガタガタ震えながら)
    よ、よろしいんですか……!
    あ、ありがとうございます ありがとうございます……!
    もう、あの、雪が やみましたら すぐに おいとま いたしますんで、
    土間どますみにでも 置いていただけましたら、それで 結構でございますんで。

おくま:何 言ってんのよ。そんなに寒さでガタガタ震えてる人に、
    土間どますみみたいな 暗くて寒いとこに ろだなんて言いや しないよ。
    それに、雪が やんだところで、もう がただよ。
    そんな時分じぶんに出て行ったって、また道に迷うのがオチさ。
    寝るだけでいいんなら、一晩ひとばん 泊まって おきよ。

 新助:(ガタガタ震えながら)
    え……!
    あ、あの……、よ、よろしいんですか……!?

おくま:そのかわり、見てのとおりの貧乏所帯びんぼうじょたい
    ろくに食べる物も無いし、何の お構いも できないよ?

 新助:(ガタガタ震えながら)
    ええもう、雪と寒さを しのがせてもらえるなら、
    もう、それだけで……!

おくま:そ。じゃ そこで雪 払って 草鞋わらじ 脱いで、
    奥の座敷に 上がっといで。
    何にもないけど 火だけはあるから。

 新助:(ガタガタ震えながら)
    あ、ありがとうございます、ありがとうございます……!
    
    で、では、お言葉に甘えさせていただきます。

 語り:笠と まわ合羽がっぱに積もった雪を 払い落とし、
    ガタつく上総かずさを閉め、かじかむ手で 草鞋わらじひもほどく。
    
    土間どま存外ぞんがい 広く取ってあり、右手の壁には 鉄砲が掛けられ、
    その下には きつねのものか イノシシのものか、
    何やらけものの皮が 2、3ぶら下がっている。
    一見いっけんして 猟師りょうしいえかと思われる風情ふぜい
    
    笠を取って 奥の座敷へ 踏み込むと、
    板張いたばりの部屋の真ん中に 囲炉裏いろりが四角く 切ってあり、
    黄色い炎が パチパチとおとを立てて 燃えている。

おくま:さ、つっってないで、そこへ おすわんなさいよ。

 語り:女にうながされるまま、
    また あたたかい火に吸い寄せられるまま、
    男は 囲炉裏いろりの前に 腰を下ろした。

 新助:(火に手をかざす。まさに生き返る心地)
    (安堵と満足の 深い吐息)
    はぁ~~~っ。
    (女に)
    おかげ様で 生き返りました。
    ありがとうございます、ありがとうございます……!

おくま:そんなにペコペコされてもねぇ。
    ウチで できる おもてなしなんて、
    この囲炉裏いろりの火ぐらいのもんなんだから。

 新助:いえもう、こごえる身には、火が 何よりの ごちそうですんで。
    
    いや それにしても、急に 吹雪ふぶいてきたと思ったら、
    あっという間に 右も左も 分からなくなって……、
    もうダメかと思いました。

おくま:山の天気は変わりやすいからねぇ。
    
    江戸から おいでになったんですって?

 新助:ええ。
    
    あ、申し遅れました。
    手前てまえ大川屋おおかわや 新助しんすけと申します商人あきんどでございまして。
    今日は あきないで こちらのほうへ来たもので、その ついでと言うとアレなんですが、
    ウチで代々だいだい 信心しんじんしております日蓮にちれん様の ご本山ほんざんへ お参りしようと思いまして。
    で まあ、参詣さんけいにも順序があるという事を 親父おやじから 聞いておりましたものですから、
    まず青柳あおやぎ昌福寺しょうふくじ参詣さんけいしまして、
    次に 小室山こむろさん妙法寺みょうほうじ毒消どくけしの護符ごふを 買い求めて、
    それから法論石ほうろんせきを お参りしましてね。
    そのあとです。
    いったん鰍沢かじかざわへ出て、そこから ご本山ほんざんへと思っていた その途中で、
    この吹雪ふぶきいまして。
    
    なにしろ どっちを見ても 真っ白で、自分が どこにいるのか、
    どこへ向かって歩いているのか、すっかり分からなくなってしまって――
    
    もう助からないと あきらめかけていたところへ、
    こちらのかりが うっすらと見えまして――
    
    どうやら お祖師そしさまも、まだ 手前てまえを 見捨てずに いてくださるようで。
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう――

おくま:そ。信心しんじんは しとくもんだねえ。

 新助:――

 語り:ふと顔を上げた新助、
    なんとなく 火に当てていた焦点しょうてんを、女のほうへ向けた。
    
    わきを向いて、羅宇ラオ煙管キセルで ぷかりぷかりと 煙草たばこを吸う 女主おんなあるじの横顔が、
    火影ほかげらされて らめいている。
    
    としころなら 二十にじゅう八、九はっく
    ぎだらけの やわらかものに、綿わたの出た 茶弁慶ちゃべんけいの ねんねこ半纏ばんてんという、
    いかにもまずしい田舎いなかおんなといった姿形なりをしているものの、
    櫛巻くしまきった髪は 鴉羽からすばのように黒く、反対に 肌は 抜けるように白い。
    少しばかりけんのある目をしているが、スッと鼻筋はなすじの通った――
    早い話が、こんな 深山しんざん陋屋ろうおくには 似つかわしくないような、
    たいそう美しい女――

 新助:あの――不躾ぶしつけなことをくようですが――
    お話しになる お言葉の様子ですと、貴女あなたさまも、
    土地とちかたじゃ ないんじゃございませんか――

おくま――ええ。あたしも、元は 江戸の人間なの。

 新助:ああ、やっぱり、さようでございましたか。
    
    江戸は――どちらで――

おくま:そうさねぇ――
    
    いちばん長くたのは、浅草あさくさかしらね。

 語り:そう言って 女主おんなあるじは 新助のほうを向いた。
    
    いえ戸口とぐちを 開けてくれた時にも 正面から向かい合ってはいたが、
    土間どま薄暗うすぐらく、顔は よく見えていなかった。
    
    今 あらためて 光の中で見る 女の容貌ようぼうを、
    新助は しばし ものも言わずに見つめた。
    
    美しさに見惚みとれただけではない。
    
    新助が 女の顔に 見入みいった理由わけは、他にあった。

おくま(新助がじっと見ているので)
    ――なあに?
    あたしの顔に、何か付いてるかい?

 新助:(あわてて)ああいえ、そういうわけでは。
    (おずおずと)
    あの――、つかぬ事を おうかがいしますが――
    以前、吉原よしわらにいらっしゃったことは、ございませんか――

おくま――ええ。吉原ナカに いたこともあったわね。
    別に珍しい事でもないでしょう?
    ※吉原遊郭は高い塀に囲まれていた。そのため「塀の中の別世界」ということで「ナカ」とも呼ばれていた。

 新助:(おずおずと)
    あの――
    手前てまえの 思い違いでしたら おびを申し上げますが――
    
    ひょっとして――
    
    「おおぎ」の、「つき乃兎のと花魁おいらん」じゃ ございませんか?

おくま(急に警戒するように)
    ――!?
    おまえさん、何者なにもんだい!?

 新助:(女の剣幕に驚いて)
    あ、いえ、その……、
    なにも これといって腹蔵ふくぞうがあったわけじゃ ございませんで。
    お気にさわったんでしたら、申し訳ありません。
    
    ――では やっぱり、本当に、
    つき乃兎のと花魁おいらんでいらっしゃいますか。

おくま(他意は無いと見て、警戒を解く)
    ――おまえさんの言うとおり。
    昔、そんな名前で おおぎに いたこともあったわ。

 新助:ああ、やっぱり――
    どこかで見たことがあるような お顔だと思ったんですよ。
    まさか こんな所で 会えるとは、驚きました――

おくま:どうして あたしのこと 知ってんの?

 新助:実は、手前てまえ、ずいぶん以前に一度だけ、
    おおぎ花魁おいらんの ご厄介やっかいになった事がありましたんで……。

おくま――ほんと?

 新助:ええ、そうなんです。
    
    覚えてらっしゃらないのも 無理は ございません。
    あれは もう――、5年も前になりますか――
    花魁おいらん数多あまた全盛ぜんせい
    手前てまえは、何者なにものでも ございません。
    一度だけ遊ばせてもらった、ただの客の一人です。
    
    5年前の――、あれは、とりばんでございましたか――
    友達と2人しておおぎへ 上がらせてもらいまして。
    その時に、手前てまえ相方あいかたに出てくださったのが、
    貴女あなたさまだったんでございます。

おくま:そうだったの――

 新助:ええ。
    遊び慣れない こんな野暮やぼな男にも、
    たいそう 行き届いた もてなしを して下さって――
    これは すぐにうらかえさなきゃ悪いと思ったんですが――
    ウチの親父おやじが カタい人間でして、なかなか機会が ございませんで。
    
    結局、一年ほどもいてしまいましたか――
    ある時 ようやくすきを見つけて、久方ひさかたぶりにおおぎへ参りまして。
    「つき乃兎のと花魁おいらんわせてほしい」と頼みますと、
    「つき乃兎のとは もうウチには おりません」との返事。
    いやもう、ガッカリしたの なんの。
    すぐにうらかえさなかった事を たいそうくやんだものですが……、
    
    そうこうしているうちに、世間せけんのウワサで
    もっと とんでもない事を聞きまして。
    なんでも、「つき乃兎のと花魁おいらん心中しんじゅうをした」なんて言うじゃありませんか。
    ――びっくりしましてねぇ……。それに、なんだか もう、
    心にポッカリ 穴がいたような思いがしまして……。
    
    それ以来、吉原よしわらかよう気持ちも すっかり無くなりましてね――
    まぁ そのおかげと言っては何ですが、手堅てがたあきないにせいを出すようになって、
    それなりの身代しんだいを こしらえることが できたようなわけですが――
    
    
    ――しかしまぁ、えんというのは不思議なものですねぇ。
    とうに死んだと思っていた花魁おいらんに、
    死にそうな命を救っていただいたんですから。
    これも、お祖師そしさまの おみちびきですかねぇ――
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……

おくま:ほんと、不思議なことも あるものね。

 新助:それにしても、世間せけんのウワサほど アテにならない物も ありませんね。
    花魁おいらん心中しんじゅうをしただなんて。

おくま――それ、本当なのよ。

 新助:――え?

おくま:本当にね、したのよ――心中しんじゅう

 新助:いや、でも、げんに 目の前に いらっしゃる――

おくま:やりそこなったのよ。心中しんじゅうの しそこない。
    (アゴをクッと上げて)
    ごらんなさいな。
    これが、その時の傷。

 語り:そう言って 女主おんなあるじあごを 少し上げ、顔を上向うわむけた。
    
    火影ほかげらし出された、女の ドキリとするような白い首元くびもと
    
    そこには、首筋くびすじから 鎖骨さこつかすめるように えがく、
    三日月みかづきがたの大きな傷跡きずあとがあった。
    なまじ 白くなめらかな肌の上にあるだけに
    それは異様なほど 醜怪しゅうかいうつり、美しい女の顔の下で、
    ゾッとするような 生々しさをはなっていた。 

おくま:結局、相手の男と2人して倒れてるところを すぐに見つかって、
    運が良いんだか悪いんだか、あたしも男も 一命いちめいめちまって――
    あたしは たちまち吉原ナカに 連れ戻されて、
    傷が治り次第 また見世みせに出されるって事になったんだけど、
    相手の男と 手紙で示し合わせて、なんとか あのさとを抜け出してねぇ。
    それから2人で どうにかこうにか、ここまで落ちびて来たってワケ。

 新助:そうでしたか――

おくま:おまえさんが ご存じかどうか 知らないけど、
    あのさとじゃ "足抜あしぬけ"は この上ない重罪じゅうざいでね。
    何人なんにんもの追手おってが かかるし、捕まったら 何されるか 分かったもんじゃない。
    下手へたすりゃ 殺される。
    
    おまえさんが あたしの昔の名前を 言い当てた時、
    ひょっとしたら あたしを吉原ナカへ連れ戻しに来た奴かと思って、
    それで つい身構みがまえちまったのよ。

 新助:なるほど――
    それは どうも、びっくりさせてしまって、
    申し訳ありませんでした、花魁おいらん

おくま:いいのよ。こっちのからさびなんだから。
    それからねぇ、その"花魁おいらん"て呼び方も してちょうだいな。
    あたしは「おくま」って名前なの。

 新助:おくまさん、ですか。
    では、そう呼ばせていただきます。

おくま:それとね、おまえさん。
    
    江戸へ お帰りンなっても、おおぎつき乃兎のと
    今は甲州こうしゅうの山奥で暮らしてるなんて、誰にも言わないでおくれよ?

 新助:ええ、それはもう。
    
    手前てまえは おくまさんに 一命いちめいを救っていただいたんです。
    その命の恩人のためにならない事は、決していたしません。
    どうか ご安心なさってください。
    
    ――ところで、さっきの お話からしますと、
    その心中しんじゅうの お相手が、今の ご亭主ていしゅというわけ――

おくま:ええ、そうよ。

 新助:さようでございましたか。
    いいですねェ――あ、いや、他人ひとさまの 死ぬような苦労を
    「いいね」なんて言っては失礼なんですが――
    まるで芝居のようじゃありませんか。
    心中しんじゅうこころみて、それから手に手を取って 駆け落ちして、
    晴れて夫婦ふうふになった なんて言うのは。

おくま:そんな いいもんじゃないわよ。

 新助:土間どまに 鉄砲が掛かってるところを見ますと、
    ご亭主ていしゅ猟師りょうしでいらっしゃいますか。

おくま:ああ、まぁ猟師りょうしもやるんだけど、
    もともとは ぐすりせがれでね。
    山菜さんさいからぐすり調合ちょうごうしたり、くまあぶらから膏薬こうやくを作ったりして、
    それをさとへ売りに行くの。
    今日も 薬を売りに出ててね。
    もうしばらくしたら帰って来ると思うけど。

 新助:はあ、外は大変な吹雪ふぶきですが、
    ご心配では ないのですか?

おくま:あの程度の雪には もう慣れっこだからねぇ。

 新助:すごいもんですねぇ。
    あの猛吹雪もうふぶきに慣れるだなんて、
    江戸えどものには ちょっと信じられませんよ。

おくま:あ、そうだ。
    おまえさんねぇ、ウチのが帰って来て 会った時に、間違っても、
    自分は つき乃兎のとと遊んだことがあるなんて 言わないでおくれよ?
    男なんてものは、さばけたように見えて、
    あれで どうして、悋気りんきなところが あるからさ。
    あたしは 別に 構わないんだけど、
    おまえさんが 変に勘繰かんぐられても悪いから。ね?

 新助:ええ、それはもう。
    そんな、やきもちを焼かれるような面体めんていでは ございませんが、
    はい、あの時の事は、腹の中に 納めておきますので、
    ご心配なさいませんように。

 語り:そんな話をしながら 新助は、
    おもむろに腹からほどいた 紺縮緬こんちりめん胴巻どうまきふところから抜き出すと、
    中から3両ばかり つまんで半紙はんしつつみ、おくまの前へと差し出した。

 新助:あの、おくまさん――。これ――
    今晩の お宿代やどだいとして、どうぞ おおさめください。

おくま:あら まあ、そんな気をつかわなくたって――

 語り:その瞬間、
    おくまの目がギラリと光ったことに、
    新助は気付かなかった。
    
    おくまの視線は、目の前の3両から、
    それが出て来た胴巻どうまきへと 素早く移っていた。
    
    たちどころに 他人のふところ具合ぐあいはかるのは、
    吉原よしわら時代じだいに 身に付いたならしょう
    「この客の持ち合わせは いくらぐらいなのか」 「どのくらい遊べる客なのか」、
    それを見極みきわめ、金を使わせるのも 花魁おいらんのウデである。
    その習性しゅうせいが、胴巻どうまきの ふくらみを見逃さなかった。
    
    あの中には、まだ100両ばかり入っている――
    それだけの金があれば、こんな山奥での貧乏暮らしとは おさらばして、
    上方かみがたあたりで 夫婦ふうふ またいちから 人生をやり直せる――
    
    おくまの心に、つい した。

おくま――

 新助:(おくまが動かないので)
    どうしました?おくまさん。
    
    気をつかうだなんて とんでもない。
    どうか、お受け取りください。

おくま:ああ、そ、そうね。
    せっかくの おこころざし無碍むげにするのも なんだから――
    それじゃ、ありがたく いただいとこうかしら。(受け取る)
    
    こういう物を もらったからってわけじゃないけど、
    何か 口に入れる物の ひとつでも 出してあげたいと思うんだけど――
    なんにも なくってねぇ――

 新助:(恐縮して)
    いえもう、何も おかまいなく。

おくま:あ、そうだ。
    おまえさん、お酒は いけるクチかい?

 新助:いえ それが、生来せいらい下戸げこでございまして。
    決して嫌いなわけじゃないんですが、
    わずかばかりの酒で すぐにポーッと なってしまう性分しょうぶんでして。

おくま:でも、めないことは ないんだろう?
    ここいらの地酒じざけは、ちょっとクセがあるんだけど……、
    そうだ、玉子酒にしたら、口あたりも やわらかくなって、
    みやすいと思うわ、身体からだも あったまるし。
    それんで 寝るといいよ。
    ちょっと待ってて。玉子酒、作ったげる。

 新助:(恐縮)
    いえ ほんとにもう、そんな お手間をいただかなくても――

おくま:いいからいいから。
    そんな手間ってほどの もんでもないよ。
    じゃ すぐに支度するからね。

 語り:そうして なかば強引に 新助の遠慮をふうじ、
    おくまは土間どまへと下がって行った。
    
    やがて、酒の入った燗鍋かんなべを持って戻り、
    それを囲炉裏いろりの上の自在鉤じざいかぎに掛ける。
    上から卵の黄身を2つばかり ぽんぽんと落とし、
    おくま 手ずから かきまぜる。
    
    そうして できた玉子酒を、
    ありあわせの湯呑ゆのみに なみなみといで、
    新助に 手渡してやる。

おくま:さ、召し上がれ。

 新助:(湯呑を受け取って)
    ああ、これはどうも。
    
    ほんとにめない性質タチでして、ここにいでもらったりょうからしたら、
    ほんのめるほどしか めないと思いますが、ありがたく いただきます。
    (熱いので冷まして 少し飲む)ふーっ、ふーっ、ズズッ。ふう……。
    いやぁ、けっこうな お酒ですねぇ。
    おなかに ぐーっとみわたりますよ。
    (また少し飲む)ふーっ、ふーっ、ズズッ。ふう……。
    
    しかしまぁ、人間の運というのは、分からないものですねぇ。
    雪の中で 息もできないほど こごえて苦しんだかと思えば、
    しばらくあとには こうして、かつて全盛ぜんせい花魁おいらんだった おかみさんから、
    あったかい玉子酒を 振る舞ってもらっている――
    本当に、地獄じごく極楽ごくらくとは、紙一重かみひとえと申しますか――
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……。
    
    (また少し飲む)ふーっ、ふーっ、ズズッ。ふう……。
    
    (酒が入ったからか、ほんの少し 打ち解けた気分になる。)
    (おくまの顔をしげしげと見て)
    それにしても――
    あの頃と 少しも変わらず お綺麗きれいでいらっしゃる――
    あ、いや、気を悪くされたら、あいすみません。
    けど、世辞せじ愛嬌あいきょうで 申し上げてるんじゃ ないんですよ。本当に そう思います。
    もちろん あの当時は、今とは違って、お化粧けしょうくしかんざし、着物で飾ってらっしゃった。
    ですからまぁ、絵で言いますと――
    あの頃は 華やかな 極彩色ごくさいしょく浮世絵うきよえ
    今は しっとりと上品な 墨絵すみえの美しさ――
    そういったところでしょうか――
    ああ、こりゃどうも、軽口かるくちが過ぎました。
    酒の上での不作法ぶさほうってことで、どうぞ ご勘弁かんべんください。
    
    (また少し飲む)ふーっ、ふーっ、ズズッ。ふう……。
    
    (酔いと疲労と眠気が ドッと押し寄せる)
    ふぅ……。いやぁ、ちょいと みすぎたようで。
    まだ半分ほど 残っちゃいるんですけど、
    この湯呑ゆのみに半分てのは、手前てまえにとっては 相当な量で。
    いや もうめません。顔も もうカッカしちゃって。
    しんぞうも、早鐘はやがねを打ってるみたいですよ。
    情けないもんで、酒を やると、すぐに こう なっちまうんで。
    もう ほら、血のめぐりが 良くなりすぎたみたいで、
    手足の先なんか、ピリピリしびれたようになってきましたよ。

おくま:あら。じゃ もう お休みになったほうが いいかしらね。

 新助:そうですねぇ、実は もう ずいぶんと眠気ねむけも差してきておりまして……。
    ご亭主ていしゅの お帰りを待って ご挨拶あいさつ 申し上げるのが礼儀なんでしょうけど、
    どうにも もう、座っているのも 大儀たいぎ心持こころもちで……。

おくま:それじゃ もう寝たほうがいいわね。
    雪の中 歩き回って、疲れも出たんでしょ。
    いいのよ、亭主ていしゅのことなんて 気にしなくて。
    帰って来たら あたしから よろしく言っとくわ。
    挨拶あいさつなんて、朝になってからでも 構わないんだから。
    (奥の襖を指して)
    そこ開けて つぎにね、薄いけど 布団ふとん二組ふたくみ いてあるわ。
    おくほう布団ふとん まるまる使っていいから、そこで お休みなさいな。

 新助:いや、でも、ご夫婦ふうふの お布団ふとんでしょう?
    そのかたっぽを 手前てまえ占領せんりょうするのは……

おくま:いいのいいの。
    ひと晩くらい、あたしと亭主ていしゅは ひとつの布団ふとんでいいんだから。
    そのへんで寝られて、悪い風邪かぜでも ひかれちゃ困るしさ。

 新助:これはどうも、何から何まで、ありがとうございます。
    では、お言葉に甘えまして、お先に 下がらせてもらいます。
    どうぞ、ご亭主ていしゅに よろしく お伝えください。
    それでは、おやすみなさいまし――

 語り:そう言って 新助は、胴巻どうまき手荷物てにもつかかえて、
    よたよたと よろけながら つぎへと入って行く。
    
    おくまが ふすま障子しょうじを閉めたあと しばらくすると、
    かすかに寝息ねいきが聞こえ始めた。

おくま――寝たようだね。
    
    それにしても――
    (湯呑の中を見る)
    (舌打ち)チッ。半分しか飲まなかったのか。
    2、3杯も飲んでくれりゃあ、すぐにも仕事に取り掛かれたってのに。
    まぁでも、あれだけでも効き目は じゅうぶんだろ。
    
    (鍋に残った玉子酒を見て)
    まったく、こんなに たくさん作るんじゃなかったよ。
    もうすぐ ウチのが帰って来る頃合いだけど、
    あの人に飲ます酒、全部 使っちまったじゃないか。
    玉子酒じゃあ、嫌がるだろうねェ……。
    はなれのくらに まだ 酒の買い置きが あったと思うけど、
    外は雪だし、億劫おっくうだねぇ――
    まぁでも、寒い中 あきないして帰って来て、酒が無いってんじゃ、
    何 言われるか 分かったもんじゃないし、
    しょうがない、取りに行くかねぇ――
    (囲炉裏を見て)
    火も弱まってきたし、ついでに粗朶そだも いくらか持って来といたほうがいいね――

 語り:そうして おくまは、酒と粗朶そだを取りに、
    表の物置ものおき小屋ごやへと出て行った。
    
    そこへ入れ違いに、このあるじ伝三郎でんざぶろうが帰って来た。


伝三郎:うーっ、さぶい!
    おう、けえった!
    (雪を払いながら)
    いやー まいった まいった、たいそうな雪だぜ。
    (返事が無い)
    ん?
    おくま?
    今 けえったぞ?
    (座敷へ上がるが おくまはいない)
    あれ?いやがらねえ。
    おくまのヤロウ、どこ行ったんだ?
    くらのほうか?ま、いいや。
    (座って囲炉裏に当たりながら手をこすり合わせて)
    うう、寒い 寒い。ひでぇ雪だったなぁ。
    
    ん?囲炉裏いろりの火がよええじゃねえか。粗朶そだえしよぉ。
    おくまのやつ、くら粗朶そだ 取りに行ってんのかな。
    
    (囲炉裏にかかっている鍋を見て)
    ん――?何だこりゃ――
    
    玉子酒――
    
    フン、いい気なもんだな。
    亭主ていしゅが 雪ん中 薬 売って歩いてる時に、
    カカアは うちで ぬくぬく玉子酒かよ。
    (湯呑を見て)
    なんだよ、湯呑ゆのみに 半分も残して行きやがって。
    すっかりめちまってるじゃねえか、もったいねえ。
    (一気に飲み干す)
    グイグイ。ぷはぁーっ。
    (おいしくなかった)
    もともと玉子酒なんざ 好きじゃねえが、
    それのえたヤツは、いっそうめたもんじゃねえな。
    
    このなべほうは、まだ いくらか ねつが残ってそうだな。
    ま、こんなモンでも 身体からだ あっためるぐらいの役には立つか。
    じゃ湯呑ゆのみに移して――
    (少し冷まして 呑む)ふーっ ふーっ、グイグイグイグイ……ぷはぁーっ!
    味はわりいが、えた五臓ごぞうには こたえるぜ。
    どれ、もう一杯。
    (鍋から湯呑に移して飲む)
    ふーっ ふーっ、グイグイグイグイ……ぷはぁーっ!
    (やっぱりおいしくない)
    多少 かんが付いてても、不味まずいのに変わりはねえなぁ。
    ま、それでも まねえよりはマシだけどよぉ。ふぅ……。
    
    (何気なく壁を見上げる)
    ――ん?
    見慣れねえ 笠が掛かってんな。
    誰か来てんのか――

おくま(帰ってくる)
    あら おまえさん、帰ってたのかい?

伝三郎:おう、おくま。おめえ 一体 どこへ――
    (急な苦痛)
    ――!!
    (身体が痺れて苦しい)
    ううっ!ううっ!!

おくま:お、おまえさん、どうしたんだい!?

伝三郎(苦しい)
    ううッ ぐッ がァッ……!
    こっ、こりゃあ、ど、どういうこった……!?

おくま(湯呑と鍋を見て)
    ――!!
    お、おまえさん、まさか……、
    この玉子酒、飲んだのかい!?

伝三郎(苦しい)
    の……のんだ……。
    そッ……、それが……、ど、どうした……!?

おくま:あの中には、しびれのどくが 入ってたのよ!!

伝三郎(苦しい)
    な、なん……だとォ……!
    てッ……てめえ……!
    て、亭主ていしゅを……、こッ……殺す気だったのかァッ……!!

おくま(涙ながらに事情を話す)
    ち、ちがう!ちがうよ!
    違うんだよぉ……!
    
    道に迷った男を 上げてやったら、
    胴巻どうまきん中に 100両は持ってる様子だったから、
    その金 ふんだくろうと思って、
    おまえさんがりょうで時々 使ってる しびれのどくを 玉子酒に混ぜて 飲ませたんだよ!
    その金があれば、こんな山奥 ぬけ出して、おまえさんと いちから やり直せると思って!!
    
    おまえさん、今、体毒下たいどくくだし 持ってくるから!
    大丈夫かい!?辛抱しんぼうできるかい!?

伝三郎(返事はない。ぴくりとも動かない)

おくま:おまえさん――
    (反応がない)
    おまえさん――
    やだよ 死んじゃ……!
    おまえさん!おまえさん!
    おまえさーん!!

 語り亭主ていしゅは すでにことれていた。
    
    ――さて、隣室りんしつで寝ていた 新助だが、
    亭主ていしゅが 苦しみ 騒ぎ出した声に ふっと目を覚まし、
    そこからは 騒ぎの様子が気になって 聞き耳を立てていたので、
    おくまの告白を すっかり聞いてしまった。

 新助:(恐怖)
    な、なんて事だ……!
    あ、あの玉子酒に、毒が……!
    手足のしびれは、そのせいだったのか……!
    の、飲んだ量が少ないから まだ生きちゃ いるが……、
    このままじゃあ、今に俺も 死んじまう……!
    ど、どうすれば……!

 語り:「毒を飲まされた」という意識も 手伝ってか、
    にわかに 苦痛も ひどくなり、身体からだしびれもしてきた。
    飲みつけない酒による酩酊めいてい拍車はくしゃけるのか、
    次第に身体からだの自由が かなくなってくる。

 新助:そ、そうだ、小室山こむろさん護符ごふ……!

 語り:新助は、昼間ひるま妙法寺みょうほうじで求めた 毒消どくけしの護符ごふを思い出した。
    しびれる手で 荷物入れから 護符ごふを取り出す。
    
    この護符ごふは、飲む護符ごふである。
    その昔、日蓮にちれん聖人しょうにんが、毒にあたって死んだ犬に、護符ごふしたためて飲ませたところ、
    その犬が 生き返ったという由来ゆらいがある。
    
    本来は 外の紙包かみづつみを切り裂いて、中の粒状つぶじょうの物を飲むのだが、
    しびれと苦痛にあえぐ身には それも もどかしく、
    新助は つつみのまま、がばりと口の中へ 護符ごふを 押し込んだ。
    だが水も無しには、なかなかくだすことができない。

 新助:(護符を口に含んだまま苦しむ)
    むぐッ、むぐぐッ……!

 語り:部屋の奥に 目をやる。
    そこは 雨戸あまどになっており、ければ いえ裏側うらがわに出られるだろうが、
    冷気れいきてついている上に、しびれる手では とうていけられそうもない。
    それでも必死の新助は、かぬ身体からだむちって 助走じょそうを付け、
    肩から 雨戸あまどに ぶつかった。
    建付たてつけの悪い 戸板といたは バキリとおとを立てて わくからはずれ、前方ぜんぽうへ倒れた。
    その勢いで、新助の身体からだ裏庭うらにわの雪の上に どさりと投げ出される。
    これさいわいと新助は 雪を ほおばり、その水分すいぶん護符ごふくだした。

 新助:ハァ、ハァ……
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……!

 語り護符ごふの効果は覿面てきめんと見え、身体からだの苦痛も いくぶんマシになり、
    手足も どうにか 動かせるようになった。

 新助:こ、これ以上、こんな おっかない所には いられない……!
    逃げないと……!

 語り:だが、先ほど 雨戸あまどを倒した物音ものおとが、おくまに異変を知らせていた。
    つぎへのふすま障子しょうじを ガラッとけてみると、
    雨戸あまどはずれ、新助が 足を もつれさせながら、雪の中を 逃げようとしている。

おくま:アイツ、なんで あんなに動けるんだい……!

 語り面喰めんくらいつつも 旅人たびびと枕元まくらもとを見る。
    合羽かっぱも荷物入れも 置きっぱなしだが、金の入った 胴巻どうまきは見当たらない。

おくま(舌打ち)チッ。胴巻どうまき身体からだに 巻きつけてやがったか。
    
    逃がしゃしないよ!

 語り:そう言って、すぐに飛び出して あとを追うかと思いきや、
    おくまは くるっときびすを返した。
    そうして座敷を通り抜けて 土間どまへ行き、そこで手にしたのは 一丁いっちょう猟銃りょうじゅう
    言うまでもなく、亭主ていしゅの伝三郎が けもの仕留しとめるためのじゅうである。
    それをかかえて戻り、ふと、亭主ていしゅむくろに目をやる。

おくま:おまえさんのかたき、あたしが取ってやる。

 語り逆恨さかうらみもはなはだしいと 言わざるを得ないが、
    頭に血ののぼった おくまには もはや どんな理屈も通らない。
    おに形相ぎょうそうで飛び出した。

 新助:(必死で走っている)
    ハァッ ハァッ ハァッ ハァッ ……!
    (ふと振り返ると、おくまが追ってくる)
    ――!!
    あの女、追っかけて来る……!!
    
    逃げなきゃ、逃げなきゃ……!
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……!

 語り:どこをどう走っているのか分からない。
    とにも かくにも、恐怖のあまり、
    お題目だいもくとなえながら、夢中で 雪道ゆきみちを駆け続ける。
    
    途中、足の運びが 重くなった。
    上り坂に 差し掛かったらしい。
    ここに来て 上りは つらいと思ったが、引き返すわけにも いかない。
    どうにか人里ひとざとに出くわすことをいのって、一心に登った。
    
    その先は――

 新助:――
    
    そ、そんな――

 語り:白い道が ぷっつりと切れている。
    
    そこはがけに なっていた。
    
    下に流れるのは、東海道とうかいどう岩淵いわぶちへとそそぐ、鰍沢かじかざわ急流きゅうりゅう
    おりからの大雪おおゆきで 水かさがし、ゴウゴウゴウと すさまじいおとを立てている。
    
    絶望した 新助が 後ろを振り返ると、なんとおそろしい執念しゅうねんか、
    おくまの姿が 次第に 近づいて来るのが見える。

 新助:――
    あの女、鉄砲を持ってる――
    お、追いつかれたら、撃ち殺されてしまう――!!

 語り:後ろに鉄砲、前はがけ
    進退しんたい きわまった新助、目を閉じて 手を合わせ、

 新助:なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……!

 語り――すると。
    
    新助が立っていたのは 雪庇せっぴと見えて、
    突然 足元から ドドッと崩れ落ちた。

 新助:う、うわぁーッ!!

 語り:落ちた先には、一艘いっそういかだもやってあった。
    雪が衝撃をやわらげ、新助は 首尾しゅびよく そのいかだに 乗っかる格好となる。
    もやいの藤蔓ふじづるれて ちかけており、
    雪と新助が 落ちて来た勢いで ブツリと切れ、
    いかだは 急流をくだり出した。
    
    その様子を、すんでの所で 追いつきそこねた おくまが 見下ろしていた。

おくま(舌打ち)チッ。なんて悪運の強い野郎なんだい。
    
    まぁいいさ。
    流れが速いったって、この川は ぐねぐね 曲がりくねってる。
    川下かわしもに先回りして、入り江に入ったところで 撃ち殺してやる。

 新助:なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう
    (筏が岩にぶつかる)
    うわあッ!
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう
    (また何かにぶつかる)
    うわあッ!

 語り:新助を乗せたいかだは 急流をくだり続ける。
    そして曲がり具合ぐあいの急な所へ来るたびに、
    丸太まるたどうしをつなつるほどけたり 切れたりして、
    バラバラになっていく。
    しばらく前までいかだだった物は、やがて たった1本の丸太まるたになっていた。
    それでも新助は 必死で それにしがみつき、お題目だいもくとなえ続けた。

 新助:と、とうとう こんな材木ざいもくひとつに なっちまった……。
    
    お祖師そしさま、どうか、お守りください、お救いください……!
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……!!



 語り:どれくらい流されていたのか――
    
    にわかに 流れが静かになった。
    どうやら わずかばかりの入り江に出たらしい。

 新助:ハァ ハァ……。
    い、生きてる……。
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……

 語り:ところが 安心したのもつか
    新助が ふっと顔を上げて 左手の川岸かわぎしを見ると――

 新助:――!!

 語り:待ち構えていた おくまが、
    鉄砲を こしだめにして、その筒先つつさきを 新助のひたいへと さだめている。
    ものの数秒すうびょう のちには、丸太まるたにしがみついた新助は、
    無防備むぼうびに流されて その射程しゃていへと入ってしまうだろう。

 新助:(絶望。もう祈るしかない)
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう、
    なんみょう ほーれん げーきょう、なんみょう ほーれん げーきょう……!!

おくま(にやりと笑って)
    来たね……!
    
    さあ、くたばっちまいな!

 語り:おくまが引き金を引く。
    
    ダーーーーーーン!!
    
    
    その刹那、どういうわけか、新助の つかまった丸太まるたが 一瞬、ひとりでに沈んだ。
    新助も 鼻先はなさきまで 水にかる。
    
    ――と、たまは 新助の髷先まげさきを かすめて 後ろの岩へ、
    
    カチーーーーーーン……!!
    
    ――と 当たった。
    
    
    丸太まるたは また 元のように浮いて、流れに乗って くだって行く。
    
    
    
    ――やがて、ぽつり ぽつりと 人家じんかの見える あたりに 流れ着いた。


    

 新助:ああ、助かった……。
    
    お祖師そしさままもってくださったのかな。
    (丸太をぽんぽんと叩いて)
    こいつが ひとりでに沈んでくれたおかげで、たまに当たらずに すんだ。
    
    ああ――
    
    
    おザイモクに 救われた。
    ※「材木」と「お題目」の洒落。

  



おわり

その他の台本                 


参考にした落語口演の演者さん(敬称略)


林家彦六
三遊亭圓生(6代目)
金原亭馬生(10代目)
古今亭志ん生(5代目)
立川談志
三遊亭圓橘(6代目)
入船亭扇辰
五街道雲助
柳家権太楼(3代目)
三遊亭圓窓(6代目)
林家正雀
春雨や雷蔵(4代目)


何かありましたら下記まで。
kurobekio@yahoo.co.jp

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